2020年06月

2020年06月27日

7月から学校再開

 こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
前回はパロの国立博物館がリニューアルオープンのニュースをお知らせしましたが、今度は7月からブータンの学校が4か月ぶりに始まるというニュースもありました。

ブータンでは本日現在時点でも、新型コロナウィルスによる死亡者は出ていませんが、海外からの帰国者が検疫施設で陽性反応があったため、治療はすすめられていますが全体的にも数は多くありません。

今まで何度か学校再開にむけて予定を立てていたものの、延期になったりしていましたが、ようやく7月から学校を限定的に再開していく方針が決まりました。
今週は、国内の学校で学校再開に向け教員の皆さんが出勤をし、その準備をしているそうです。

こういったニュースは明るい兆しでうれしくなりますね。

今週の首都の町の様子を、知人が現地から写真を送ってくれました。

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国内でもっとも交通量が多いと思われる交差点でも、車の数は少しずつ増えてきています。

こちらは銀行での様子。

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青いテープでの待つ場所の印はあるのですが…どうだろう、フィジカルディスタンス的には取れていないかもしれない。。。
ただ、銀行などの手続きは、一人ではわからないから複数人で行って手伝ってもらうこともブータンでは多いので、こうなるのもよくわかります。

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カウンター越しに見ると高くて話しにくいし、伝わりにくいといった理由で、横から話している姿は以前からよく見かけます。
・・・・やっぱり、そうなるよね(笑)

感染の疑いがある人は検疫施設でコントロールされ、街中では出会う可能性が低いブータンですから、もちろんフィジカルディスタンスは十分に取った方がいいものの、もともと人と人とのコミュニケーションが密である人々なので、距離が近くなってしまうのも自然の流れな気がします。

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日本でもブータンでも、世界のどこでも、改めて気を付けるべきこと、従来のように人と人が親しくコミュニケーションをとることが少し方法が変わってもできること。

ちょっとずつ慣れながら、そうなっていくような気がします。




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2020年06月26日

ブータン国立博物館がリニューアルオープン

 こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

6月24日に、「パロの国立博物館が約9年ぶりにリニューアルオープン」という大変うれしいニュースがありました。


この博物館は、パロ・ゾン(城)の建つ丘の上から見下ろす出城とされていた砦(タ・ゾン)を、1986年に博物館として改造しました。

しかし、2011年9月にインドのシッキム州を震源とするM6.9の地震でブータン国内の建物にも被害があり、この博物館も大きなダメージを受けました。

その後、仮面舞踏のマスクやタンカ(掛け軸)など一部の展示物は、隣接する別棟に移し展示をしていたのですが、今回はタ・ゾンのメインビルディングが修復されオープンとなりました。


2011年9月22日の過去記事から、地震後の様子を見てみます。
インド・シッキムでの地震 ブータン内の影響3 国立博物館

この時に撮影した写真をいくつか見てみると、

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白壁の部分が剝がれ落ち、

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建物は、伝統建築で意思を積み重ねて作られていたことがわかります。
外見からは大きなダメージには見えませんが、内部は修復するには大変時間がかかるほどダメージを受けました。
というのもこの建物は出城であったため、内部はかなり複雑な構造になっていて6階建てで、各フロアの大きさも異なり、半円を2つ組み合わせたような形でした。

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当時の、博物館への入り口部分の橋。
ここを渡り、博物館の廻り方としては5階と6階の展示を見て4階に戻り、別の方向へ向かって3階へ下りながら各階を見学し、最終的には地下1階に出るという複雑な構造。

2015年に撮影した修復工事中の様子を見てみると、

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こんな感じでした。
わかりにくいと思いますが、実はこの写真は1枚目の写真と似た角度から撮影しています。違って見えるのは、一見ダメージが一見なかったように見えた外壁も大幅に修復、そしてその内側にある高い塔のような中心の建物も作り直しているため、ずいぶん違った姿に見えます。

博物館を一通り見学し、地下1階から出口に出てくると、そこからの眺めはとってもよくって、

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絶景ポイントで必ずや写真を撮りたくなります。
この写真は冬に撮影したものですが、田畑は春夏秋冬それぞれの色に染まり、写真にも少し写っていますがパロの空港・滑走路も見えます。

博物館内部の展示は面白いものがたくさんあるのですが、ブータンには数少ない石器時代の石斧、チベット仏教の古派・ニンマ派の立体曼荼羅、ブータン仏教の伝統を象徴するツォクシンラカン、仏教に関するタンカや仏像、王家のコレクション、動物のはく製、そしてユニークなブータン切手の数々。

そして、とてもとても面白いのが
馬の卵!!!

馬って哺乳類だよなぁ、卵からなんで生まれるの???と思いますよね。
これは、言い伝えで馬が産んだ卵と言われていたため「それは大変珍しいから博物館に展示しよう」となったそうです。
一時期、「科学的根拠が示すことが難しいものを展示するのはどうか」という声もあり、収蔵庫に移ってしまいました。

しかし、私は昨日のニュースで発見しました!


こちらの動画で1分33秒ころに登場します。また展示されるのかな。

なおこの動画ではオープニング・セレモニー、竣工式の様子がわかります。
このようなお祝いは博物館のような大きな建物だけでなく、一般の家屋であっても行います。

ニュースの中では、「新型コロナウィルスの予防対策もふまえ、博物館のバーチャルツアーもウェブサイトから見れます」と言っていたので、早速見てみると…

映像は、昔よく見た博物館の内部だ~と感動しました。


修復後も、構造を変えたり大幅に展示の流れを変えていないようです。
照明や説明書きはより見やすくなり、内装も新しく見えますが伝統的なデザインは変わっていません。

国立博物館の内部は以前はカメラ持ち込み禁止であったので、おそらく今後も同じだと思うのですが、このバーチャルツアーを見れば一部の展示の解説がみれます。

複雑な構造の建物がどうなっているのかイメージできます。


すぐにはブータンに行けなくてもお家でも楽しめますよ!


:僕もよくお散歩に行ったよ

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bhutan_diary at 20:12|PermalinkComments(0)パロ 

2020年06月24日

ブータン塩の大作戦

 こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
ブータンの塩をシリーズで書いていますが(一話二話三話)、シリーズ最終回です。


1955年にブータンとチベットとの間に貿易問題がおき、ブータンで食塩不足の危機があったことを地元紙クエンセルにありました。リンク先はこの記事の一番下に貼っておきます。その内容を引用・抜粋しながらまとめています。


食塩不足の解消するため、インドから輸入をしたいが陸路運送ではとても高い。

この問題を解決するための秘策とは…いったいなんだったのでしょう。
・・・・
・・・・

それは、なんと!空中から投下する案が選ばれました。
この発想は当時、とても大胆なものだったと思われます。


投下目標は合計で、5000マウンド(=186,600キログラム。
じゅうはちまんろくせんろっぴゃくキログラム!!

前回の記事での計算方法で考えると、もしこの量を陸路で運んだ場合の輸送費は20万ルピー。
当時の政府高官の給料1000か月分=83年間分。
牛を飼うなら2666頭分。
これを考えると陸路より空中投下が安いという試算になったのでしょう。

あぁあぁ、でもでも、わたくし、、、なんか嫌な予感がします。。。ぞわぞわ。と思いながら記事を読み進めていくと、こう続いていきます。

”ブータン首相のジグミ・パルデン・ドルジはインド・コルカタへ向かい、依頼を受けてくれる航空輸送会社を探すと3社に交渉の余地があった。

そのうちある会社は、洪水救援活動で忙しく関心を示さなかった。他社は、最初は無関心だったが、交渉を重ねた末に興味を示し、テストフライトを行い調査をしたが最終的には許可が下りなかったこともあった。

しかし、交渉をしているうちに2回ほどテストフライトを行って、その可能性を知らせてくれた会社があった”


良かったですね。現在のブムタンにある国内線空港でさえ、天候が悪ければ着陸ができなくなりますので、投下をするにも困難が多かったと思います。

そしてテストフライトが終わった後も、実行までには紆余曲折があったそうですがとうとうその日を迎えます。


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(国内線から見たブムタンの町、当時の落下目標地点近く 2012年撮影)
3 (4)
(国内線から見た様子)

”落下ポイントの航空運輸会社からの提案は、ウォンディチョリン宮殿とジャカルの町の銀行がある平坦な土地の2か所だった。ブムタンの人々は「塩が来る!ジグミの塩だ」と声を谷に響かせた。

空中投下は11月6日に開始された”


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(ブムタンの空港の滑走路はウォンディチョリン宮殿の近く。時を経てもここは空港に)

しかし、初日と翌日の投下はあまりうまくいかなかったそうです。
その様子はダショー・ウゲン・ドルジ【 Dasho Ugen Dorji (1932-2006)】の手紙にその時の様子が記されています。

”投下の初日と2日目は、飛行機は高度を下げることができず高い地点から投下し、目的地点も不正確だった。8袋は川に落ち流れ、6袋は岩に当たり粉々になって散らばり計14袋が失われた。残りの袋は損傷したものか、破けたものだった。
しかし、落下目標地点を複数ではなく、ジャンペラカンのお寺のみに集中して投下し始めると、破損はずっと少なくなったことが分かった”

”手紙によると投下は1日に3回行われた。1回の投下につき82袋ずつ、計246袋を投下していたがそのうち4~5袋は破損した。各袋からそれぞれ7~8パウンド(注:約3キロぐらいずつ)の塩は台無しになった。
残りの詳細はまだわかっていないが、11日間で目標18万6千キログラムに対し、2706キログラムの塩が投下されたことを知っている”
と新聞記事には、塩の投下についてはここまでの記載がありました。


これだけだと最終的に目標数をすべて投下できたのか、そしてどれだけの損失がでたのかはわかりません。この記事を元に、手元に残った塩ではなく、投下された数だけで考えてみました。

11日間で2706キログラムが投下された。ということは、
目標達成にはこのペースであれば、あと747日間が必要。

1日に計246キロを投下していることになる。
そして1日に3回飛行して投下=1回につき82キロを投下したことになる。

う~ん。。
この記事を読み始めたときのゾワゾワ感が、よみがえる(笑)
コルカタからの運航1回につき塩を82キロの投下していたことに私の計算ではなるのですが、もう少し運べないのかったものなのかなぁ。搭載量が限界だったのかなぁ。
でもこれだけしか運べないなら、コスト高そうだけどなぁ。
そして、投下したうち何割かはダメージを受けているというのは・・・

な~んて今の基準で考えだしたら、いけませんね。
それに私は計算も英語の読み取りも得意ではないので、間違えているかも知れません


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(ブータン料理には塩味が欠かせない)


当時の時代では、効率があがらないことなど当然のようにあったでしょうし、一部の記録だけを見て判断することもできません。
パイロットもすごく大変だっただろうな。
でも人々は本当に塩を待っていただろうし、うれしかっただろうなぁ。

人々は塩を待ちながらもブムタン・ジャカルに建つ、最古の寺の一つジャンペラカンを目標に投下されていたことを知っていたら、さぞかしみんなオムマニペメフンと真言を唱えただろうな。
国道が開通するまで、ずっと塩の投下は続いたのだろうか?


なんて、様々なことを思い楽しみながら読みました。


また記事には、ブータンがチベットへ米や穀類の貿易をやめるよう措置をとったのであろう裏事情(表向きには国内需要のためだが、実際は不当な取引となっていた)ことなどにも言及がありました。


今回、この新聞記事を読んで「塩」はそれ自体もまた交易路もふくめ、世界中で同じように交易の道がありとても興味深いテーマだと改めて思いました。

私がブログで書くには深すぎるテーマだったので、民俗学者さんなどが研究していたらもっと知りたいと思いました。

かつてインドでは塩の専売制がしかれ、海という資源があっても自由に塩を作ることはできなかった。
ガンディーさんが塩の行進をへてインドでの製塩が認められたのも1931年。

この1955年のブータンへの塩の投下まで、塩の製塩が認められてから20数年しか経っていなかった時の出来事だと考えると、なんだか重みのあるしょっぱさです。


それに、空中投下にまつわるブータン特有の自然環境や交易がわかったのもおもしろいですね。

急がば回れだったのかな?と思いながらも、塩をバター茶とエマダツィ(唐辛子のチーズ煮)のためにも待ちわびた人々の姿を思うと、一大事件だっただろうな~。


↓クエンセルの記事はこちら

https://kuenselonline.com/the-1955-bumthang-salt-crises/

:大・大・大・大作戦だったね


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bhutan_diary at 22:00|PermalinkComments(0)

2020年06月23日

1955年ブータン塩の危機

 こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
ブータンの塩をシリーズで書いていますが(一話二話)、舞台はブータンへまた戻ります。


ブータンはチベットと国境を接していますが、交易路はブータン国内の東西にいくつかポイントがありますが、有名なのは西ブータンではパロやハ、東ブータンではブムタンやルンツェ、タシヤンツェなどにチベットとの交易をしていた場所があります。


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(チベット国境近くを通るチョモラリ・トレック)

昔はトンサより東、峠ペレ・ラを越えたら「東ブータン」とされていて、面積でみれば東ブータンの方が大きなエリアでした。

特に現在の中央ブータン・ブムタン地方とチベット本土が交易のルートで、温暖な気候の東ブータン地方で作られた米などの穀類と現在中国にあるチベット自治区の塩をメインに長い間、両国の貿易品として流通していました。

ブータン側の国境ポイントは、現在のブムタン地方・ナンシペル村を越えた先の峠モンラ・カンチュンラです。ここを通って南チベットからブータンに塩がもたらされていたそうです。

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(ブータンの米や穀類はチベットには魅力的な品)


実際にブムタンのお寺を訪れると、歴史的にチベットと関わりがあったお話がたくさん登場します。
このブログではケンチョスムラカンの言い伝えを紹介しました。
『ケンチョスムラカンのお寺にある鐘の音は大きく美しく、チベットのラサまで響いた。
その音を聞いたチベット人はこの鐘が欲しくなり、ブムタンへやってきた』

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そんなブータンとチベットとの間に、貿易問題が勃発します。

ブータンの地元紙クエンセルに「かつて中央ブータンのブムタン地方で塩が不足をし、その問題を解決するための秘策があった」という記事がありました。
リンク先はこの記事の一番下に貼っておきます。記事を抜粋しまとめてみます。

”1955年、ブータンはチベットへの米の輸出を禁止した。表向きの理由は、米などの穀物類は国内需要に留めることが目的だった。それに対しチベット人は、塩の輸出を禁止することで対抗した。
この輸出禁止の詳細については、Nari K. Rustomjiの著作「Bhutan Venture」に記録があり、著者はシッキムのDewanだった。彼はブータンの人々に「Rustomjiおじさん」と親しまれ、この時期にブータン王室の結婚式に参加するためにブータンに招待されていた。"

とあります。Dewanとは、役職のことです。

塩が手に入らなくなったブータン、まぁ!大変です。大事なミネラルが不足してしまいます。
ブータンの人たちは塩味が大好き、塩がなくっちゃソウルフードのエマダツィもおいしくならない!


この危機を打開するため、Rustomjiおじさんがブータンに手を貸します。
シッキムの高官に手紙を書き支援を求め、インドから塩を入手することを思案します。
ブータンとシッキムは長年交流があり、何より皇太后はシッキムのご出身です。

当時の
近隣諸国との関係は、先月アシ・ケサン・チョデン皇太后が、90歳のお誕生日を迎えられた時にもふれましたが、簡単におさらい()。
皇太后の母上はシッキム王家の出身、兄は初代ブータン首相、1952年ブータン第三代国王とご成婚。近隣諸国での出来事も合わせてみてみると、


47年 シッキム王国はインドの保護国に

52年 第三代ブータン国王が即位

55年 チベットとブータン間に貿易問題、チベットから塩がストップ

58年 インド初代首相ネルーと娘インディラ・ガンディーがブータン訪問

59年 チベット動乱。ダライ・ラマ14世がインドへ亡命

62年 中印国境紛争が勃発

64年 初代ブータン首相が亡くなる


この時代はどの国も激動の時代でした。
さて、どうしても塩を手に入れたいブータン。

インドから輸入するにはいくらかかるのか思案し、コスト計算もしました。

”計算によると、インドからブムタンまで塩の輸送費は塩1マウンド(約37キログラム)あたり40ルピー。当時の政府高官の給料が月200ルピー、牛一頭が75ルピーであった。”

高いですね。なぜこの値段になるのでしょう。おそらく一番大きなのは輸送費、交通問題です。

このブログを先月読んで下さったみなさま、覚えていらっしゃいますか。
ブータンへのフライトが運航開始されたのは1983年。それよりも以前に、日本人の東郷大使は1962年に
ブータンへ訪問されましたね(※※)。
その年はインド・ブータン国境
プンツォリンから首都ティンプー方面へ、国道が開通した年。
それでも2日間の旅でしたが、それ以前はラバで6日間だった、雨季であれば更に時間がかかると記録されています。

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(現代においても地方では通行に苦労する場所も多い)

塩の危機を迎えた1955年、まだ国道は開通していません。
ということは…首都ティンプーから東ブータン地方へ運ぶにはさらに倍の時間がかかり、チベットとの貿易で活躍していたヤクに比べラバが一度に運べる量も少なく、急いで塩を流通させるにはベストな手段ではなかったのでしょう。

それに
輸送費がこれだけ高かったら、一般市民には到底手が届きません。いろいろ考え、Rustomjiおじさんはあるアイデアを思いつきます

続きます。ひっぱってしまってごめんなさい。次回がシリーズ最終回です。

↓クエンセルの記事はこちら

https://kuenselonline.com/the-1955-bumthang-salt-crises/

:次で塩の大作戦がわかります


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bhutan_diary at 21:30|PermalinkComments(0)

2020年06月21日

清水寺・大日堂でのブータン

 こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

先日は「ブータンの塩」について続き物で書いていますが、今回はちょっと別のお話。
以前に京都の清水寺にて、思いがけず見つけたブータンがありました。
記載写真は最新のものではありませんので、お出かけの際には確認の上参拝なさってくださいね。

京都は観光名所、そして大学など教育施設も多く、日本各地からアクセスがあり、交通手段は鉄道や新幹線、高速バスの本数もあります。地方からの移動には夜の高速バスで京都へ向かい、早朝に京都駅に到着する便もあり、私もよく利用していました。

「せっかくだから朝早くから参拝できる場所は無いか」と探してみると、
京都でも超人気の観光場所のひとつ・清水寺が早朝6時が開門時間だったので、さっそく行ってみました。京都駅からは徒歩でも行けますが、少し距離があるのでバスの利用が便利です。

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朝6時半過ぎに松原通(清水坂)を歩いていくと、途中で清水寺・大日堂と書かれたお寺があり、看板には「大日如来坐像」とありました。


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「チベット仏教圏でも大日如来は良く見かけるけど、ここにもいらっしゃるだな。
まぁ、でも大日堂よりも先に清水寺の境内の中に行こう」と通り過ぎたのですが・・・

大日堂の看板をながめつつ視線を隣に移すと

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外壁に掲げある奉納の経緯がありました。それをちらっと見ていると…ん?んん?

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「ブータン国」の文字が 
瞬間的に飛び込んで見えました!この奉納書きや、のちに調べてみると…

清水寺が京都伝統工芸大学校の仏教彫刻専攻の教授や学生たちに仏像政策を依頼し、東日本大震災の津波でたおされた30本の松を使い、作られたそうです。

その際、「ひとノミひと削り活動」として、制作中の像を陸前高田市をはじめ全国各地にはこび、1万人以上の参加者がノミを入れ、被災地への鎮魂と復興を願い、世界の方々との絆をより深める意義深い心の込められた仏像となり完成しました。
この活動には、国賓として来日されていたブータンの現国王と王妃も参加されました。
清水寺の本堂に奉納された後、2013年に大日堂のご本尊になりました。

ブータンの国王様と王妃様がお二人で初めて来日されたとき、金閣寺で傘を差す姿はブータンでもよく報道されていましたが、ノミ入れをされたりしていらっしゃったんですね。

ここでブータンのことを思い出したら、深夜バスでの眠気もなんだかスッキリしてきました。

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さらに清水の舞台を見て、すっかり目が覚めた。
これは以前の写真で屋根が修復中でしたが、本堂の檜皮屋根は今春に葺き替え工事が完了したそうです。

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早朝のまだ人通りの少なく、晴れた冬の日に思いがけずブータンと京都のつながりを発見しうれしくなった朝でした。通常は、観光客で賑わい混雑しているので、この時でなければ気が付かなかったかもしれません。

清水寺の大日堂は、境内の外、松原通(清水坂)にあります。
正式名称は眞福寺(しんぷくじ)、この名前で表記されていることもあるそうです。

深夜バスで朝に京都についたら、清水寺への参拝もおススメです。


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