シャブドゥン
2020年05月02日
ブータン・教師の日
こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
毎年5月2日はブータンは「教師の日」で、先生に日々の感謝を伝える日で生徒たちは学校へ集まり、感謝のスピーチを行ったり、歌や踊りを披露します。今年は休校中なので、登校をして先生に直接感謝の気持ちを伝えることが難しいので、絵を描く子供たちもいたそうです。
日本には教師や先生に感謝を伝える日は、卒業式でしょうか。でもこの時は先生だけでなく、友達やクラスメイト、先輩や後輩、校舎とのお別れもあるので様々な感情がつのるものですが、ブータンのように「この日は先生に特別に感謝する日」と決まっているのも、良いですね。
5月2日である理由は、ブータンの第三代国王陛下(現国王の祖父様)の誕生日であり、崩御後も「教師の日」として特別な日です。
第三代国王陛下は、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)の礎をきずき、国家の発展のゴールは『国民の繁栄と幸福』としました。在任中、ブータンは1971年に国連に加盟し、英語学習の強化や、学校の整備など近代的な教育制度を導入されました。
まさに「教師の日」とするのにふさわしい日ですね。日本では、かつての天皇誕生日が「みどりの日」であったことに似ています。
そして今日は、17世紀にブータンを統一した王・シャブドゥンの命日でもあります。ブータンは他国から襲われないよう、当時シャブドゥンの死を54年間隠していた、と言われています(詳しくはこちらの過去記事へ)。すごいなぁ、どうやって側近たちが隠していたのか知りたい
以前、お坊さんから教わり今でも覚えていることに「善き師につき、学びなさい」と言われたことがあります。私は仏門に入っているわけではないので、そうなんだ~程度にしか思っていませんでしたが、確かにブータンのような仏教国でよく言われ、大切な教えの一つです。
私は、自粛生活で参考になるいろんな動画を見ているので、一方的にお世話になっている方がたくさんいます。伝わらないかもしれませんが…ありがとうございます
過去の記事で、ブータンの先生たちの奮闘の様子を書きました↓
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2016年04月18日
今から400年前、ブータンを統一するために
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。今回も前回の記事の続き、おととい4月16日の出来事を書いています。
この日は、今年の2月にご誕生されたブータンの皇太子様の命名式がプナカ・ゾンで行わましたが、それと同時に、ブータンを17世紀に統一した王「シャブドゥン ンガワン ナムギャル」に敬意を払い、祝う儀式も同時に行われました。
シャブドゥンは、1616年に南チベットのラルン地方からブータンへやってきて、群雄割拠状態であったブータンを統一していきました。まずはティンプーのパンリ・ザンパ寺院を訪れ、チェリ僧院を創建し、そしてブータン独自の建築でありシステムであるゾン(城)の建設をはじめます。
シャブドゥンとは、名前ではなくタイトル・尊称で、「その足元に人が平伏す高貴な姿」や「信仰の最高の力」などを意味をしており、ブータンではお寺に行くと、お釈迦様、ブータンに仏教を伝えたグル・リンポチェ、そしてシャブドゥンの像や仏画、壁画などがよく祀られています。今年は、シャブドゥンがブータンにやってきて400年目を迎える記念すべき年なのです。
(プナカ・ツェチュ祭の1シーン、シャブドゥンの登場)
そのため、皇太子さまのお名前にナムギャルが用いられたのも、ブータン国民がみんな納得していました。
そして、この日はシャブドゥン・クチェ Zhabdrung Kuchoe と呼ばれる祝日だったのですが、私は最初にこの祝日の英語の説明を見た時に驚きました。過去記事にも書いたのですが(※)、この祝日の英語訳は「Dearth Anniversary of Zhabdrung」で、シャブドゥンの命日。私は、「ふ~ん、命日を祝うのか~。現代から考えると不思議な感覚にもなるけれど、お釈迦様が涅槃に入られた日も祥月命日として敬意を示すし、同じようなことかな」と思いました。
このお話には続きがあって、シャブドゥンは1651年に亡くなったのですが、国内の混乱や再び戦国時代となり各地域の主が争うことを防ぐため、死後54年が経つまで、死は公表せれずに隠していました。チベットでも、1682年に亡くなったダライラマ5世の死を側近たちが隠していたそうなので、当時はこのようにして対外的に守っていたのですね。現代の世の中なら、一国の王の死を54年隠せないでしょうが、当時は瞑想中です!と側近が言っていたのかな~なんて想像してみます。
しかし、シャブドゥンの死後200年は、再び抗争と内乱の時代となり、1907年に現王家となる初代ウゲン・ワンチュクが最初の世襲制国王に選ばれるまで、初代国王の誕生とはなりませんでした。
(プナカ・ツェチュ祭の1シーン、戦いをやめシャブドゥンにひれ伏す人々)
さて、この日は熊本や九州の地震のこともあり、どこかお寺に行きたい、できればシャブドゥンに縁のある場所がいいなと思いながら、パロの町に行くと、毎週日曜日の野菜市場が開催される隣のお寺で
町のど真ん中にあるお寺で大掛け軸(タンカ)が掲げられていました。
子どもたちと一緒にマニ車を回してから、参拝しました。
寺院から続々と出てくる人々。寺院内部では法要も行われていました。
このドゥック・チョディン寺院は、以前、私の職場の同僚と一緒に奉仕活動として、周囲の壁を白く塗りなおすお手伝いをしました。ドゥック・チョディン寺院は、別名ツォンデュ・ナクツァンとも呼ばれ、1525年にチベットのラルン地方から来た僧ンガワン・チョゲルによって建てられ、その後、シャブドゥンにより保護をされ、創建400年を超す歴史あるお寺です。
まさにシャブドゥンに縁があるお寺であり、この日にタンカが掲げられるのも納得ですね。いつもは二名程度のお坊さんしか在沖していないお寺ですが、
列に並んで、タンカに沿って歩き、額を付けて願います。
みんな何を願うのかな。この日、私は日本の地震の事が気がかりで、一日も早く落ち着くことを祈りました。
タンカに対し、五体投地で参拝ができるようにシートを敷いた場所も用意されていました。
お布施を渡して、聖水を授かりました。
シャブドゥンは、ユニークで今までにないアイデアを用いてブータンを統一していった王という印象が私にはあります。私から見ると、その精神は400年を経てもブータンに引き継がれていて、独自で唯一無二のアイデアで現代を生きていくブータン、とも感じます。
ブータン国民にとって、今年ご誕生された皇太子様も将来はシャブドゥンのような偉大で、ブータンらしさを残し邁進するような王様となられるように、健やかなる成長を願われた一日だったのではないでしょうか。
:僕もひれ伏します、はは~っ
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2016年04月17日
ブータン皇太子様のお名前が発表~命名式~
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
熊本・大分の両県、また九州地方のみなさま、まだ余震が続く避難生活の中、不安な日が続いていると思いますが、一日も早く日常に戻れるようになることをブータンからも願っています。
昨日4月16日は、ブータンではビックイベントが目白押しの一日でした。
昨朝の便にて、英国の英国のウィリアム王子とキャサリン妃が2泊のブータン滞在を終え、インドに戻られました。ブータンの社会は狭い、というか、コミュニティの繋がりが強いため、お二人の滞在中のお話もテレビや新聞などだけではなく、ブータンの人々の間で噂レベルで話題になっていました。例えば、
「お二人が召し上がったタクツァン僧院のカフェテリアのメニューは14種類ほどで、山菜(ナケ)のチーズ煮が気に入られていたよ」、「鹿のような軽やかな足取りで1時間もかからずにカフェテリアまで到着して、その先も同じようなスピードで歩いて僧院を参拝されていたよ」
などと関係者からのお話も聞きます。こういった噂は真実ではない場合もあり、信ぴょう性は半分半分くらいですが、もしお二人がナケ・ダツィを美味だと思って下さったのならうれしいな~なんて、会話をしていました。
そしてプナカ・ゾンにて、ブータンの宗教の最高権威である大僧正ジェイ・ケンポにより、2月5日にご誕生された第五代ブータン国王陛下の第一子となる皇太子の命名式も行われました。
お名前が決まっていなかった2か月ちょっとの間は、His Royal Highness The Gyalsey と表記されていました。Gyalsey(ギャルセイ)とは王子様のことを表します(詳しくは→ブータンの国王と王子様の呼び方)。皇太子様は現王家・ウォンチュック家で、将来は第六代国王となられる方であり、お名前は、XXX・XXXX・ウォンチュックとなります。王家のご家族の皆様や各国会や県の議員、関係者、お坊さんに囲まれながら命名式が行われましたが、発表されたお名前は、
Jigme Namgyel Wangchuck (ジグミ ナムギャル ウォンチュック)王子様となりました。
Jigme (ジグミ)とは恐れがないことや勇敢、Namgyel(ナムギャル)には勝利という意味があります。
特に今年は、ブータンを17世紀に統一した王「シャブドゥン ンガワン ナムギャル」が南チベットのラルン地方から新しい国を建国するべくブータンにやってきてから400年目、そうブータン統一400年となる、そんな記念すべき年に皇太子様がご誕生されました。そのシャブドゥンに敬意を示すためにも、「ナムギャル」をお名前に使ったそうです。
あれ、でも・・・お父様にあたる第五代国王陛下のお名前は Jigme Khesar Namgyel Wangchuk(ジグミ ケサル ナムギャル ウォンチュック)です。ということは、、、お父様のお名前から Khesar を抜けば同じお名前ということになります
ウォンチュック家の歴代の王様のお名前たちも似ているので、今後もブータンの歴史の本を読むときには、さらに読解が難しくなるな~なんて思いましたが、流行などに流されず、名は体を表す願いを込めて名付けられたのではないか、などと思い、それもブータンらしいなと思いました。ジグミもナムギャルも、ブータンではよく聞く名前です。
現在の日本で400年前と同じような名前を名づけることは、伝統芸や名門のお家などではありますが、一般的にはあまりないですよね。江戸時代の名前、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門、尾形光琳、俵屋宗達、狩野探幽とか、、、でも芸名などではまだ使っているけーすもあるのかな?
プナカでの命名式の様子はブータン国営放送でも放送され、国民も大注目でした。
(パロの町の寺院にて)
そして、この日はシャブドゥン・クチェと呼ばれる祝日でしたが、今年は特別な法要が各地で行われました。その様子はまた次回にご紹介します。
:僕もいろいろ恐れないぞ~
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2015年06月09日
ブータン巡礼の旅16~プナカ・ゾンを復習 その1~
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
引き続き、北インドのラダックからいらっしゃった学僧であるパルダンさんと、今年1月中旬に訪れた中央ブータン・ブムタン地方への「ブータン巡礼の旅」のシリーズをご紹介しています。
この日は、古都プナカにあるプナカ・ゾンへ訪れました。このブログではプナカのことを書く機会も多く、中でもブータンの建築物の中でも総合的にも屈指の美しさをを誇るプナカ・ゾンをこれまでも度々ご紹介しています。
プナカゾンをメインにした過去記事だけでも、
「プナカゾン 初夏の見どころ・3」
「プナカゾン 初夏の見どころ・2」
「プナカゾン 冬の見どころ」
「プナカゾン 初夏の見どころ」
「プナカゾンを守る」
「お父さんブータンに行く 5・プナカゾン編」
これだけありました・・・・。プナカのゾンは、夏と冬ではっきりとした別の季節感が感じられ印象深いので、過去の記事はこういった↑リストになるのかもしれません。日本のゴールデンウィークころ、プナカの初夏に咲くジャガランダとのコンビネーションは特に美しいですね。
さて、簡単にプナカのことをおさらいをしますと、、、
プナカは、1637年から1907年まで首都として機能を果たしていました。首都がティンプーに移ってからも、1953年に初めての国民議会はプナカにて開かれました。プナカゾンはブータンで2番目に古く、また2番目に大きなゾンで、冬でも温暖な気候を生かし、大僧正であるジェイ・ケンポを筆頭に千人程度の僧たちが冬の間はティンプーのタシチョゾンからプナカゾンへ移りますし、2011年にはここで現国王が結婚式をあげました。
プナカは、ブータン建国史にも密接に関わっています。
17世紀にブータンを統一した王シャブドゥンは、南チベットのラルン地方から新しい国を建国するべく土地を探し、ブータンにやってきました。彼がプナカを首都としたのは、2つの川、ポ・チュとモ・チュに挟まれることで地形が見渡せ、守備がしやすい地の利を選んだと言われています。また当時は、チベット軍だけでなく、ブータン国内にも反対勢力がありました。
余談ですが、私はこのシャブドゥン王について「自国のチベットの文化をベースとし、しかし自分で新しい国を創るぞ!という熱い想いを持った、独自のアイデアに溢れたユニークな王であった」という人物像をいだいています。
例えば、「ゾン(城)」という宗教と政治を分離させた新しい概念を持つ巨大な建物をたてたことや、形はチベットの衣装と同じなのに、裾をたくし上げ袖を折ることで全く違う衣装に見える「ゴ」の着用方法など、今現在でもブータンのアイデンティティとして認知できるものの多くは、シャブドゥンの時代から伝わるものです。
「チベットと同じにはしたくなかった」という意志を感じます。そして、シャブドゥンが最高にクール!な戦法で勝利したチベット軍との闘いについては、是非こちらの記事「プナカツェチュ祭・その2」をご覧ください。奇抜な戦術に腰を抜かしますよ~~(笑)
さて、話がそれましたが、、、、
プナカゾンには、シャブドゥン王のご遺体であるミイラと、彼らが命がけで守ったブータン最大の国宝「ランジュンカルサパニ」が大切に納められています。そのため今もなお、宗教および王室にとっても、プナカゾンはとても重要な場所であります。
なかなか話が進みませんが、このようなことをパルダンさんに説明しまして(しかし、パルダンさんはチベット全土の歴史にあかるいので、時代と活躍した人の名前を述べるだけで簡単に理解されるので助かります&びっくりです)、プナカゾンの観光をはじめました。
プナカゾンへの入り口となる、急なこの階段を登って入場をします。
この階段は3つに仕切られていますが、王シャブドゥンがいた時代も、ここにあった階段をのぼって謁見をしていました。当時のブータンには各地域に地方長官「ペンロップ」がいましたが、その中でも南ブータンのダガ、旧東ブータンのトンサ、西ブータンのパロの地域が力を持っていました。特に南ブータンのダガ・ペンロップが謁見に訪れる際に持参した献上品が立派であったため、真ん中の階段を使っていたそうです。
急な階段をゆっくり登りながら、「当時の南ブータンの献上品って、象牙とか、フルーツとか、今はあまりない木綿やその他の繊維を使った織物とか、嗜好品だったのかな~」とイメージが膨らみます。
ゾンは複合的な建物であり、その中で最も高い建物をウツェと呼び、ここを中心にお坊さんが暮らすエリアと県庁としてのお役所(オフィス)の部分に分かれますが、ぱっと見た感じではすぐにどこがお役所なのかがわからないほど、内部はお寺のように様々な壁画が描かれています。
これは、壁画のキンコルをよむパルダンさん。これは、四角いマスの一つ一つに言葉が書いてあり、左右の縦からでも、横から読んででも意味を成すもの。
これは、六道輪廻図に干支や占いの要素が加わったマンダラです。
これはブータンでは『ツェリン・ナム・ダン』と呼ばれる長寿の象徴を描いたもので、直訳すると「6つの長寿のシンボル」です。数珠を持った仙人の姿のようなご老人、大木、ほら貝、岩清水、鶴と鹿です。
長生きの象徴でもありますが、パルダンさんは「自然に逆らうことなく調和して生きていくことが、実は長生きということでもある。今、流行のエコロジーの原点がここに描いてある。千年以上経とうとも、教えの本質というものは変わらないんだよ」とおっしゃいます。その通りですね。
これは以前もご紹介しましたが、フレンドシップ・仲良しの象徴の絵で、ゾンカ語では「ツェンパ・プゥン・ジ」と呼び、直訳すると「4つの友達との信頼関係」でしょうか。いくつかあるいわれのお話しから、パルダンさんが教えてくれたものをご紹介します。
昔、世界の木と呼ばれる木がありました。この木は大変美味しい実と美しい花を咲かせ、みんなに愛されていました。ある日、森の仲間達が集まったとき「誰が最初にこの木を見つけたのか」という話題になりました。象は「僕が子供のころに、目の高さにこの木はあったよ。この木の葉につく露を舐めるのがおいしくてね」と言いました。猿もうさぎも小鳥も同じように「僕が子供のころに、目の高さにこの木はあった」と言いました。さらに猿は「この木に尻尾などを絡ませて遊んだ」、うさぎは「この木の周りでピョンピョンはねて遊んだ」、小鳥は「この木はまだ芽が生えたばかりで大きく成長していくのを見るのが楽しかった」と答えました。
ということは、、、、
一番体が小さい、小鳥が最年長ということになりますね。そうして、これらの動物たちは、年上の人を敬うようになりました。
このフレンドシップの絵の象徴は、仏教の教えに基づき、みんなで仲良く暮らすこと、そして年上の方を敬うことの大切さを教えるものです。
これもよく見かけますが、ブータンでもお寺の外壁によく描かれている、カーラチャクラのマーク「ナムチュワンデン」です。カーラチャクラはチベット仏教における最奥義の代表的な聖典ですが、このマークはカーラチャクラの十文字の真言(マントラ)を飾り文字とたものです。だから、飾り文字の一つずつ、色が違う文字になっているのがわかりますか?
真言を音読すると、、、オンアーフンホーハンキャーマーラーワーラーヤーです(覚えきれない・・・)
こういった仏教の教えはブータン国内の宗派を問わず、どのお寺でも共通です。そのため、通常は入り口付近やお堂の外の壁画として描かれ、お寺に参拝する前に人々がこのような基本的な教えを常に思い出させるために描かれているとパルダンさんは言います。これらの基本的なことから理解していくことが、より複雑な密教の教えの内容に触れるために必要であると説きます。
と言うことで、、、プナカ・ゾンのような広大な場所に行きますと、、、ずっとパルダンさんから質問が飛んでくるのでドキドキですが、こういった有難いお説教はなかなか受けることができませんので、貴重なことです。
やっと、敷地内の半分、一番高い建物であるウツェまでくることができました~ふぅぅぅ~~
一度でプナカゾンについて書き上げたかったのですが、内容が多すぎるので次回に続きます。。。。
:お留守番はもう飽きてきたな~~
2013年12月12日
プナカゾンを守る
昨日に引き続き、古都プナカのご紹介です。プナカのシンボルと言えば、ブータンでも随一の美しさを誇るプナカ・ゾン(城)があります。このブログではプナカゾンについて、もしかしたら、自分の暮らしているパロにあるゾンよりも、多く書いているかもしれないですね。
でもやっぱり、何度見ても素敵だと思うので、どうしても書いてしまうんです。目が覚めるような紫のジャガランダが咲く初夏のシーズンも一押しですし、冬の一押しとしては、
入口階段横にあるヒマラヤ桜。もちろん、存在感はあるのですが、あまり知られていないのでつい見落としがちになってしまいます。
今冬も、美しく花を咲かせてくれました。
それにしても、いつも同じような写真ばっかりになってしまう~と反省し、今回は少し今まで見ていなかった角度や視点から眺めてみることにしました。
集会堂側から見た、ゾンの中心、行政と宗教の部分を分けるウツェを眺めてみたり、
ゾンは複合的建築ですが、その中でもこれだけで立派な一つのお寺であるマチェ・ラカン。この建物内部には、17世紀にブータンを統一した王シャブドゥンのご遺体であるミイラが納められています。そのため、24時間で徹底的な警備がされていますし、なんといってもこのマチェ・ラカンの内部に入場ができるのは国王、大僧正であるジェイ・ケンポ、この建物の責任者である僧侶、食事担当のお坊さんのみ。その他のブータンのロイヤルファミリーの皆さまや、首相、リンポチェと呼ばれる高僧ですらも、マチェ・ラカンに入場することはできません。そして、シャブドゥンのご遺体にも毎日、食事が用意されます。
現国王の2011年10月のご成婚の時も、このマチェ・ラカンから儀式は始まり、国王と王妃は五色のスカーフを授かりました。ブータンの歴史としても、国宝としてもとても重要な場所です。
そんなことを思いながら、壁画の曼荼羅や、天井に至るまでの丁寧に書かれた仏教のモチーフを眺めたり、
スノーライオンをみて、シーサーを思い出したり、
ぷらぷらしていると、
あれ、これはブータンのお寺でよくみるたわいのない扉ですが、あれ、なんか、ちがう。
あれあれ、これも。
そうそう、こちらも。
そうなんです!!!
至る所で、火災に備えた設備を目にしました。非常ベル、消火器、消火栓、防火水槽などが、以前よりも充実したように思います。以前からあったと思いますが、より表示がわかりやすくなっていたり、消火栓の前にものを置かなくなったりしていました。ゾンの中でいくつか消火栓を見てみましたが、そこには水が出るかチェックした後もありました。
そう、ブータンの人達には忘れられない悲しいウォンディポダン・ゾンの全焼という火災が、2012年6月24日にありました。また、タクツァン僧院も1998年に消失していますし、ブータンでは火災で焼け落ちてしまった僧院や寺院が後を絶ちません。以前は、お供えとして使うバターランプが原因でしたが、現代では漏電の問題もでてきました。
ウォンディポダン・ゾンが全焼していく様子、強風にあおられて更に燃え上がる様子を目の前で何人も泣きながら見ていた姿は忘れられません。この火災が起きる前から、日本も草の根運動やブータン政府からの依頼で消防車を寄贈してきましたが、その消防車を最大限に使うことができような整備や消火栓も必要です。
パロ・ゾンでも、防火砂や消火器の数が増え、火災予防・対策が以前よりも強化されたことは、嬉しい限りです。
プナカゾンにはブータンの最国宝とされるランジュンカルサパニも納められています。これは、シャブドゥンがチベットから亡命するときに持ち出した、ドゥックパカギュ派の正当な後継者だけが手にできる宝物です。
チベットから宝物も、国を統一した王のご遺体も、城塞としてのゾンの建物自体も、そこに息づく目に見えない歴史も、これからもずっと守ってもらいたいと思います。