ブムタン
2015年04月23日
ブータン巡礼の旅10~ブムタンからトンサへ~
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただきありがとうございます
引き続き、今年1月中旬に訪れた中央ブータン・ブムタン地方への「ブータン巡礼の旅」のレポートの続きです。
この日の午前中は、ブムタンからトンサまでの約68㎞・およそ2時間半のドライブをしました。ブムタン地方の中心の町ジャカル(2,700m)を出発して、ドライブをして間もなく越える峠は峠キキ・ラ(標高約2,800m)です。
パロからブムタンまで一日で移動してきた日は、すでに日が暮れていたのでストップしませんでしたが、今朝は清らかな空気の中、立ち止まって祈りの旗を掲げました。キキ・ラまではゆるやかな登り坂であり、ジャカルの町からも近いため、「峠に来た!頂上に立った!!」という感じがしないかもしれませんが、車から降りて林道に少し入るとたくさんの旗がたてられています。
さて、ドライブ中は車窓の景色を楽しむと共におしゃべりにも花が咲きます。もし、日本人の方が同行していたあ「キキ・ラって、サンリオのキャラクターのキキララを思い出すよね~。どっちが男の子だったけ~」などと話してみたい
この日、実際に話していたのは、ブータン人とラダック人の名前について。このお話も面白く、書こうと思うと長くなるのでいつかまた別の記事で書きたいのですが、簡単に言うとブータンでもラダックでも、名前をつけるのはお坊さんなどが多く、縁起の良い名前が好んでつけられます。でも、宗派と発音に違いがあるため、同じ意味でも呼び方にちょっと違いがあります。
パルダンさんの名前はブータン風に発音したらパルデン、ブータンに多い名前のカルマはラダックではスカルマ、ブータンの女性の名前のデマはラダックではデルマ、など次々に名前をあげながらワイワイと車中は盛り上がります。
ブムタン地方のチュメ谷のズンゲは、この地方の織物を隣接する工房で織っている姿も見学できます。ここは幹線道路に面しているため、外国人観光客や首都ティンプーから中央・東ブータンへのローカルバスもここで停まります。この時は1月だったので冬休みや下旬にある東ブータンでのお正月などで規制するブータン人学生もいて、ここでお買い物をしていました。
さて、ここでぜひとも見ていただきたいのは、、、ブムタン地方には、私の大好きなヤタ織りがあります。ブムタンはもともと毛糸の産地ですが、このヤタは太めの毛糸を用いて粗目に織りあげた織物で、毛糸にはヤクのものもあるし、ウールもあります。
ジャケットも見る分にはかわいいけど、なかなかブータン人のお母さんのようには着こなせないんだよなぁ。
バッグも過去にたくさん買ってしまったし(でもこのデザインもいいなぁ)、絨毯もほしいけれど実際に敷ける場所があまりないんだよなぁ。
そして、織物と言えば色鮮やかな女性の民族衣装のキラ。豪華絢爛、この模様を織や刺繍で図面なしで頭の中に記憶した構図だけで織あげていくなんてやっぱり素晴らしい伝統文化だし、この色の組み合わせもブータン独特のもの。
ブムタン地方はヤタだけでなく、もう少し細い毛糸で編んだオレンジをベースにしたチェック柄の「セタ」、白やオレンジ、グリーンや藍、黄色のチェックの「マタ」もブムタンの名産の柄です。セタやマタはブータンの民族衣装の定番柄です。
お店のお父さんもお母さんも「どれも似合うよ」と言ってくれますが・・・結局、織りあげた生地・マタを買いました。
そして、この村を散策していると、家の軒下に織機がある家がありました。ブータンの地方、特に中央や東では比較的織機を見かけることがあります。それにここはなんといっても織物で有名な村です。
こんにちは~と声をかけて、お家の方へ向かってみると、
少女がお母さんと一緒に織物をしていました。
ブータンには織機が2つあり、地面に座って使う地機(パンタ/ポンタ)とこのように椅子に座って織る高機(ティタ)がありますが、この少女が使っているのはティタです。ティタは1900年代初頭にチベットからもたらされました。
彼女が初めてティタを使うのは習ったのは9歳の時にお母さんから習い、13歳になった今ではバックであれば一日あれば織り上げることができるとのことです。
冬休みの間は、毎日織物をして甥っ子の面倒を見るのが彼女の日課だそうです。自分で織機を使って織り上げることができるなんて、素晴らしい技術ですね。
ズンゲで布のお買い物を終えた後は、あともう一つ、私がブムタンで買いたかったものを探して次の集落で立ち止まりました。
途中、車からすれ違う村人に聞いて「ここの集落にある家にきいてごらん」と言われ、たどりついたのはお店ではなく普通の民家の家でした。
ここで譲っていただいたのは、蕎麦です。蕎麦粉は手に入りやすいのですが、私が探していたのは殻つきのままの蕎麦だったため、いろいろ探してみたのですがなかなか見つかりませんでした。蕎麦の粉でも実でもなく、殻つきという状態は、収穫している農家に聞くのが一番早いとのことでした。
家の中の倉庫に連れて行ってもらって、
そこで量り売りをしてくれました。ブータンでは、お米などを量り売りで買う場合に使われているのは、升ではなくデとおばれる円形の入れ物で「デ」と呼び、このデをいっぱいにすると1kg以上になります。
私の感覚では1.5kg未満といったところでしょうか。このデに2杯分を購入しても、2百円もしませんでした。
突然来たのに仏間にもあげていただき、やっぱりブータンの仏間はどこの家でも立派だな~と感心しながら蕎麦殻を握りしめ、急な階段を下りてきました(ブータンの民家はとても急な階段、ほぼ梯子状態なのです)。
これでブムタンでのお目当てのお買いものは終了し、トンサへ向かいます。
:殻つきのお蕎麦はどうするの??
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2015年04月21日
ブータンの飲み物・ブムタン編~ブータン巡礼の旅9~
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただきありがとうございます
引き続き、今年1月中旬に訪れた中央ブータン・ブムタン地方への「ブータン巡礼の旅」の続きです。
ブムタン谷のジャカルの町を終日観光した後は、私の希望でブムタン産の食品をお買い物に行きました。ブムタン地方は、早くからスイスなどからの援助を受け、ブータンの自然を生かした食品のプロダクトに成功しています。ブムタン地方はパロやティンプーなどに比べ更に冷涼であり、放牧地でもあり、蕎麦が特産品であり、夏はブータン松茸もとれ、それらの加工品がブータンのお土産としても有名です。
私がよく好んで買うのは、野いちごのジャムやりんごで作ったジュースやお酢、蕎麦粉などです。
お買い物先は、ジャカルの町から車で5分程度のエリアにあるスイス・チーズ工房や、レッドパンダビール、リンゴジュース工場です。このブログをずっとご覧になっていただいた方は覚えておいでかもしれませんが、かつて私はブムタンへ国内線をパロから往復で日帰りして、ここまでお買い物に来たことがあります・・・・(詳しくはこちら)。
このお店は外見はログハウス風で、中に入った印象は普通の雑貨屋さんにも見えなくもありませんが、
よく見ると並んでいる商品はブムタンの特産品がたくさんあります。
この棚の商品はほぼブムタンで作られたもので、
ラベルが可愛いアップルワインや、
一人で飲みきるのにいつも気合がいる、ビール瓶サイズのアップルジュースや、
洋ナシ?を使った果物のスピリット、そしてジャムなども並び、ブムタンの果物を使った商品があります。
そして~~~
忘れてはならないのはこのレッドパンダ!
このレッドパンダは、ブータン国内では初めて作られたビールです。
レッドパンダ(レッサーパンダと呼んだ方が日本ではなじみがありますかね)のラベルがかわいいこのビールですが、酵母がきいていて香りが高く、ろ過をしないためビール瓶の下には酵母の澱が沈んでいてグラスに注ぐと最後のほうは濁ります。
日本で飲むビールとはかけ離れているので好き嫌いは分かれますが、味はフルーティで、白ビール(小麦ビール)と思っていただければ味がイメージできるかもしれません。
ビール工場もあるのですが、隣接するこのお店では、
サーバーから注いだレッドパンダをいただくことができます ブータンではビールサーバーを見る機会がほぼ無いので、とっても飲みたい。。でも寒い。。そして今回は僧侶であるパルダンさんに同行しているので「飲みたい」とは言い難い・・・・ということで今回はオーダーしませんでしたが、次こそはジョッキを持参してでも自分で注いで飲んでみたい!と思うのでした
もし、おつまみが欲しくなったとしたら、
スイスチーズを量り売りしてくれます。ブータンの家庭で作るチーズは醗酵させないものが多いので、こういったハードチーズを見るのも久しぶりです。
買ったチーズは、次の日の朝にいただくことにしました。
今回宿泊したのは、ジャカルの町を見下ろす高台にあるミーファム・ゲストハウス。ここのお宿のご家族とはもう10年以上の知り合いになるのですが、久しぶりにお会いしてきました。
私はここの台所がとても気に入っています。もちろん、ここはホテルなので台所は宿泊客がくつろぐ場所ではないのですが、ここの来るといつもダイニングではなく台所にお邪魔して、その様子を眺めています。台所兼オーナーもその家族もスタッフもみんながここに集い、冬は薪ストーブのブカリと薪のかまどが大活躍です。
この日は大きなグループがあったので、台所ではスタッフが大忙し
猫ちゃんもかまどのそばにやってきて、朝ごはんをおねだり中。
台所にきれいに並べられたおたまやへら。
かまどの上のフライパンでは目玉焼きがぞくぞくと、あいたスペースではこうやってトーストを焼いているんですよ。シンプルだけれども美味しい朝ごはんがいただけるのは、こうやって一生懸命作ってくれているからなんだなと、上がってきた朝日を背にながめながら思いました。
私が初めてこのゲストハウスに来たとき、オーナーのご主人が毎朝、男の子の赤ちゃんをあやしながら読経をしていました。その読経の声が低音がきいていて、なんともいい声なのです。話してみると、その赤ちゃんより少し年上のお兄さんは、ブータンの宗教上のトップであるジェイ・ケンポの生まれ変わりと認定され、両親は息子さんをお寺に預けたころでした。彼は先代の69代ジェイ・ケンポの生まれ変わりとされ現在も修行を続けています。赤ちゃんだった弟くんも少年となり、冬空のした元気に走り回り、その姿を見て改めて時の流れを感じたりしました。
またブムタンに戻って来たいな、そんなことを思わせてくれる場所です。
続きます。
:なかなか帰ってこないのね~~
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2015年04月18日
~ブータン巡礼の旅 8~ケンチョスム・ラカン再建中
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今年1月中旬に訪れた中央ブータン・ブムタン地方への「ブータン巡礼の旅」のシリーズですが、ぼちぼちと旅の続きをお伝えしていきます。なかなか一気に更新できず、書きたいことが多くこのシリーズが8回目になっても、まだ観光1日目が終わらない状態なのですが、どうぞごゆるりとお付き合いください。
午前中にブムタンのジャカル谷のメインとなるお寺を観光し、その後、病院や銀行の様子をみた後は、ジャカルの町でお昼ご飯を食べることにしました。
3年ぶりに訪れたジャカルの町ですが、パロやティンプーと比べると交通量が少なく、建物も2階建てまでのものが多く、谷の景観とマッチしてなんだか落ち着きます。この日は快晴だったこともあり、町の真ん中にいても広大な空の広さを感じることが出来るなんて、やっぱりブータンだなと思います。
町は数年前に火災により燃えてしまった部分が多く、昔は板葺きの屋根が連なるストリートでしたが、再建後はトタン屋根に変わったものの、時の流れは変わらぬよう。
お昼ご飯をいただいたあとは、ケンチョスム・ラカンへ出かけました。
初めてここにきたのですが、おや、なんだか「あれ、お寺なの?それとも、他の建物なの?」と着いた瞬間は思いました。なぜなら、ケンチョスム・ラカンは歴史のある国宝級のお寺と聞いていましたが、なんだか工事中のようなのです。しかし、宗教上の建物であることは明確です。それは、建物に写真の左端のように赤いラインが入るのは、宗教的な建築物にしか許されないデザインだからです。
早速お寺の中へ。
やっぱり建設中でした。
ケンチョスム・ラカンは9世紀初頭に建てられた千年以上の歴史あるお寺です。グル・リンポチェ自身がデザインされたイメージを元に建てた3階建ての寺院であり、ここにはたくさんの言い伝えが口伝で残っています。
お寺の名前の由来となったケンチョスムとは三宝のことであり、三宝を表す仏像がブータンのクルテ地方から飛んできたと言われています。
ここに保存された宝物として、8世紀に作られたとされる大きな壊れた鐘(choedril)があります。この鐘は寺院を作る前に行われる儀式をした時に使い、人魚がグル・リンポチェに捧げたものと言われています。この鐘の音は大きく、ここからチベットのラサまで響いたそうです。その音を聞いたチベット人はこの鐘が欲しくなり、ここからチベットへ運び出しましたが鐘を持って途中の山を越えることができず、鐘を壊してしまったそうです。
15世紀になるとブムタン出身の僧ぺマ・リンパが登場し、彼はグル・リンポチェが隠した宝を探すことのできるテルトンとして活躍しましたが、このお寺はぺマ・リンパにより大規模な修復壁画の修復が行われました。
しかし、五年ほど前の2010年2月24日の午後に灯明であるバターランプが床に転倒し、そこから窓のカーテンに火がまわり大きく損傷してしまいました。
その後、人々の寄付によりもう一度お寺を再建することになったそうです。↑この写真で見ると、画面左下に白色と赤色の部分が見えますが、そこが元のお寺で焼け落ちなかった部分です。現在はここに残った仏像などを置き、その部分を囲む形で新しく建て直しています。
天井もより高くなり、もともとのお寺の3倍くらい広くなっているのではないか!と思うほどです。
ブータンの人の考え方では、火事などで焼け落ちた場合、そのようなことがまた起きることがないようにと、オリジナルのものよりも更に立派に大きくする傾向があるらしいです。確かにタクツァン僧院も再建後はずいぶん立派になったような気がするので、このような考え方もあるのはなんとなく納得です。
ブータン人は嫌がると思いますが、私はペイントで極彩色に塗られていない、細かい彫刻だけされたお寺も味があって好きですが、やっぱりこれから派手に塗られていきます。
森林限界と雨量が少ない関係で、木材が超貴重であるラダックでは、このような木をふんだんに使い天井が高いお寺を作ることは難しいため、パルダンさんは柱をず~っとほれぼれと眺めていました。
ティンプーから運ばれていた数々の仏像。
おがくずをいっぱい箱に詰めて大事に運ばれてきたのですね。なんだか同じ目線で仏像を見ることは恐れ多い気がしたのですが、パルダンさんは「これらの仏像はもちろん大切なものであるが、これから仏像内に経典や宝を入れて儀式を行うことにより、命が吹き込まれる。その内容や教えが尊いものであり、目に見える仏像部分が最も大事であるというわけではない」とおっしゃいました。
そして、僧房もこんなにきれいに伝統模様がデザインされていて素晴らしい、とおっしゃっていました。
ケンチョスム・ラカンから川を挟んで対岸に見えるのは、午前中に訪れたクジェ・ラカンの全貌が見えます。
この後は、歴史ある壁画が残るタムシン・ラカンへ。
お坊さん達がトルマを作成していました。
初めて訪れたケンチョスム・ラカンと、何度きても味わい深いタムシン・ラカン。そして、やっぱり火の用心!歴史ある重要な文化財をより長く後世まで伝えていって欲しいですね。
続きます。
:火の用心のパトロール~~
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2015年04月11日
その写真撮るの? ~ブータン巡礼の旅 7~
本日もブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
今年1月中旬に訪れた中央ブータン・ブムタン地方への「ブータン巡礼の旅」のシリーズですが、パロ・ツェチュ祭があったため、前回の話の続きから更新の時間が少し空いてしまいましたが、旅の続きをお伝えしたいと思います。
今回のお話はちょっと心和むお話です。
さて、ジャンペ・ラカンの観光からジャカルの町のメーンストリートまで車で戻る途中、ある建物にパルダンさんが興味を示されていました。
これは、ブータン・ナショナル・バンク。
この日は祝日で、銀行自体はお休みでしたが、ここで人々はお金をおろしたり、送金をしたりしますが、最近はATMカードも増えてきました。
パルダンさんは銀行の写真を様々な角度から撮影するだけで、特にお金の話もせず、「あれ、銀行の写真を撮ってどうするのかな」と心の中で思いました。
次に来たのは、こちら。
この立派な伝統建築の建物はなんだと思いますか?煙突の数が多いのが、冬は気温が下がって薪ストーブ・ブカリが必要になるブムタン地方の建物の象徴のように感じます。
建物内に入っていくと、こんな感じの入り口があります。
この公共の建物は、
ブムタン地方で一番大きな病院です。
このブログでは、他の都市の病院もご紹介してきましたが、ブムタンの病院の伝統建築の美しさはナンバーワンと言ってもいいほど、うっとりします。もちろん、病院としての機能を果たすためには外観の美しさだけではいけませんが、一歩足を踏み入れると、そこには近代的な設備もある病院でした。
他の都市の病院の様子としては、プナカはこちら、パロはこちらの記事をご覧ください。
さて、私は北インドのラダックから来た僧侶・パルダンさんがどうして唐突に「病院に行きたい」と言い出したのかがわかりませんでした。
お腹が痛いのかな、どこか悪いところがあるのかな。。。無理な日程にしちゃったからなぁ、と心の中で繰り返すも、ご本人の様子はどうみても病気ではなさそうなのです。
そう思いながらついていくと「これを写真を撮ってほしい」とおっしゃられる場所がいくつかあって、
それはこのような案内板や、病院自体の看板などでした。
これはどういうことなのだろう、と思って、どうして銀行や病院の写真を撮るのか理由を聞いてみました。
そのお話から、現代のラダックの微妙な立場を再認識させられました。
というのも、このシリーズの始まりで書きましたが、
インド最北部のラダックは中国、パキスタンと国境を接し、またアフガニスタン北部にも近い位置にあります。その地形により、仏教美術だけを見てもその地形からカシミールやガンダーラ美術、その他の影響も色濃く受けています。以前はラダックはチベット仏教を信仰する王国でしたが、19世紀にカシミールの藩王国に併合され、現在はインド最北の州・ジャンムーカシミール州の中の一エリアです。現在では州内の人口はイスラムやヒンドゥー教徒におされ、仏教徒の人口は減りつつあります。
州内ではイスラム色の強いウルドゥー語が話されたり、表示はインドの公用語ヒンドゥー語が使用されます。また、多様な宗教が混在しているため、ラダックの人たちが町のシンボルとして仏教のチョルテン(仏塔)を作りたくても、偶像崇拝を行わないイスラム教の人々はその意見に賛成をしないことも多くあるそうです。
パルダンさんがブータンに来て感じたことは、看板などの表記には、英語と共にゾンカ語で書かれていることに感動をしたそうです。ゾンカ語とチベット語は、使用している文字は書体は若干異なりますが基本的には同じですので、ラダックの人も読むことができます。
ブータンの看板をラダックの人に見せて、こうやって自分たちの文化を守るアイデアを話し合えないか。
ヒンドゥーやウルドゥーだけでなく、チベット語を使ってラダックの公共の建物にも使用できないか、そんなことをみんなに伝えるために病院や銀行を訪れたのでした。
そうかぁ~そうだなぁ、ブータンのように国民の大部分がチベット仏教を信仰し、それに基づき伝統建築や文字や宗教のシンボルを使えるということは、ラダックのように複雑な状況に置かれている立場から考えたら、それはとても幸運なことなのですね。
そして、病院を去る時に、そっと「ここはラストルームであろう」とおっしゃいました。
病院から道路を挟んで対岸にあるこの建物は、そのお言葉のとおりご遺体を安置する場所でした。すごい、私、何回かここを通っていたのに全く分からなかったけど、やっぱり、わかるんだなぁ、としみじみ感心してしまいました。
病院の敷地内で遊んでいた子供たち。
この姿を見ながら、みんなが仲良く安心して暮らせる社会の素晴らしさ、当然のように感じていることが実はとても恵まれていることでもあることを考えさせられました。
まだまだこの旅は続きます。
2015年03月26日
ブータン巡礼の旅 6 ~ジャンペ・ラカン~
いつもブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
今回も引き続き、1月中旬に訪れた「ブータン巡礼の旅」の続きです。
中央ブータン・ブムタン谷の観光を朝から初めて、ジャカル・ゾン、クジェ・ラカンとその裏山にある湧き水でお清めをしてから向かったのは、「ジャンぺ・ラカン」です。
この写真はちょうど寺院の背中側から撮影したもので、正面入り口の写真ではないのですが(あまりに天気が良過ぎて、正面からは逆光になりまくりで上手に撮れませんでした)、パロ谷のあるお寺の雰囲気にも似ていると思いませんか?
なんとなくピンと来た方もいらっしゃるかもしれませんが、このお寺はパロ谷にある古刹キチュ・ラカンに趣が似ています。
キチュ・ラカンとこのジャンペ・ラカンは共に7世紀に建てられました。古代チベットの王で、チベットに最初に仏教をもらたしたソンツェン・ガンポ王の命によって659年頃に建てられたと言われています。
ソンツェンガンポ王は、最初は仏教をチベットに普及させることができずに苦労をしたそうです。仏教の普及を邪魔をする存在がいました。チベット国土を大きく覆いかぶさるように横たわる魔女・羅刹女が暴れるため、仏教の寺院が壊れたり、人々への布教が妨げられたためです。そして、その魔女を封じ込めるため、魔女の体の108のツボの場所に寺院を建立することにしました。
ここキチュ・ラカンと中央ブータンのジャンぺ・ラカンは魔女の左足にあたる部分だと言われ、キチュ・ラカンはひざ部分、ジャンペ・ラカンはつま先の部分だとされています。
先ほど訪れたクジェ・ラカンは現王室のサポートも篤く、丁寧にメンテナンスもされ守られている印象がありますが、このジャンペ・ラカンはもちろん今でも人々の信仰を集めているだけでなく、歴史としての重厚感が空間にぎゅっと詰まった神秘的な雰囲気を感じるお堂です。
今までの人々の祈りが1300年以上もここに積み重なっている、まさにそんなイメージです。
ここも堂内は撮影が出来ないのですが、是非、ここへ来るチャンスがあればその空間を感じていただきたいですね。
ローマ字のつづりで読むと「ジャンペ・ラカン」なのですが、ブムタン地方の人々には「ジャンパ・ラカン」と発音されることもあります。地方の訛りということに加え、本堂の像が弥勒菩薩「ジョ・ジャンパ」であることも由来しています。
そして、ジャンペ・ラカンにもお祭りがあり、「ドゥップ祭」というお祭りが毎年10月~11月ころに開催されますが、これはブータンでも他に類を見ないお祭りです。
日中の演目は他のお祭りと同様ですが、このお祭りは深夜0時頃から特別な演目があって、、、それは、秋深まって深夜気温が下がりシンシンと寒い中に始まります。その演目は、、、
裸で踊ります。
村の男性衆が顔を仮面のように布で包んで隠し、松明を持ち、10名程度で踊る演目があるんです!!!
こ、これは、、、衝撃的ですよね
隠しているのは顔だけ!そこを隠すのか?そこじゃないとこを隠したほうがいいんじゃないのか?→最初に見たときの心の声
裸の衆は観客の目前まで松明を持ち、悪霊を追い払うために火を持って踊るのですが、最初に見たときは、「は、は、は、裸だ~!ぜ、ぜ、ぜ、全裸だ~!!」と驚きました。そして、このお祭りを見に来た老若男女のブータンの人々は、これを見て普通に笑顔なんですよ!御祓いをしてして~といった感じなんです。
私は松明を持っているといえど踊り手が寒そうで、そっちが気がかりでした
この演目は写真撮影は不可ですが、そうすることで、昔から伝わる伝統を廃れずに続けて欲しいと思います。
そんなことを思っていると、
日中は、ずっとこのお寺の中庭でマニ車を回したり、真言を唱えることを繰り返して過ごしているというブータン人のおばあさんが、ラダック僧のパルダンさんのところにやってきました。おばあさんは、声を出してはっきりと言葉にするのが難しい様子です。パルダンさんが使うチベット語とブータンのゾンカ語は似ている部分があるのですが、どうやらおばあさんはパルダンさんにブレッシング(祝福)をして欲しい、祈って欲しい様子です。
それを知ったパルダンさんは、
かばんから経典を取り出し、おばあさんの頭の上にかざし、真言を唱えてあげていました。
やっぱり初めて会ったとしても、国が違えどもこうやって通じるんだなぁ、見た目で名前や肩書きやらそういうことを知らなかったとしても、お互いにわかりあえるんだなぁということを体験したシーンでした。
そして、お坊さんが常に携帯する持ち物に経典があるのですが、こういう時にも使うんだと知りました。ブレッシング(祝福)をするにしても、そのお坊さんが偉い立場にあるかどうか、ということに私達は注目をしてしまいがちですが、ブレッシングの際に使ったものは経典であり、それはお釈迦様の教えです。パルダンさんはきっと、「自分がブレッシング(祝福)を与える立場だ」とは考えていらっしゃらないはずで、自分は僧という立場であり、僧はお釈迦様の教えを学び多くの人に伝えていく役目がある、そんなことを背中が語っているようでした。
そんなことを学んだ、今回のジャンペ・ラカンの参拝でした。