ブレッシング
2017年09月09日
寛容なブータンな人々 ~タクルン僧院 3~
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今回も前回の続きです。
お寺に集う人々を見ていると、その空間はとてもピュアな気持ちに包まれ、清らかな瞬間です。それはブータン最大の春のお祭りパロ・ツェチュ祭の最終日に、夜明け前に大掛軸(タンカ)がご開帳される時と同じような雰囲気に包まれます。たくさん人がいるのに静かで、静粛で厳か、しかし熱気を感じます。
篤い信仰心をブータンの人々は確実に持っています。それに基づく行動は日常の中に溢れ、無意識のうちに彼らの所作や行動に表れています。でも、その行動はあまりにも自然で、信仰心の塊を外に向かってドラマティックに表現するというよりはみんなの心の中にひとつひとつある、ように私は感じます。自分の信仰心を誰かに向かって、外に向かってアピールするような要素がない。五体投地をする姿からもあくまで自分自身に向き合っているんだな、または自分自身と1対1でお釈迦様と向き合っていると私は思います。
(パロ・ツェチュ祭 大タンカご開帳・五体投地で祈る人々)
そうじゃないと、あんな表情はできないんじゃないかな。。。
そして素晴らしいと思うのはブータンの人々は他人にも寛容である、ということ。例えば、今回参加した高僧の読経も祝福(ブレッシング)も、私は急に誘われ着ていたのは普通の洋服で、ブータン人は正装しているのにこんな服装では参加できないと気にして聞いたのですが、外国人だから大丈夫だと言います
(※もちろん肌の露出が高い服装は不可。寺院参拝の際は足のラインが出ない長めのもの、襟付きのシャツがのぞましい)。
彼らは私が仏教徒であるかどうかも問いません。服装も宗教も性別も国籍も年齢も問わず、写真も撮っていいよ、という。彼女たちが私に聞いたことは、『今、私がここに居たいのか』それだけでした。
(※写真や服装については場合によりますのでご注意ください)。
こんな寛容さってあるのかな。少なくとも、私はブータンでは、今までで訪れた場所では一番の寛容さ、懐の深さを感じます。寛容である、ということは受け入れること、優しさがあること、慈しみがあること。そんなことにも置き換えられます。
個人としてではなく国家としてみた場合はまたケースが異なります。
ブータンの観光制度として「ガイドやドライバーを付けず、宿泊場所も事前確保せず、バックパッカーとして旅行をさせていない」から寛容ではないと言われたら、外国人に対してはそうなのかもしれない。でも、この国をブータンらしく保護する政策として行っていることがブータンの人々を寛容でいさせるための手段でもあるのではないでしょうか。また移民の問題やその他の様々な問題を、他国同様に抱えています。
少なくともブータンの人々は優しい人が多いと私は感じてきました。特に『初めて出会った人にも親切である』ということが大きいですね。
そしてこういった仏教行事の雰囲気を知っていただきたく、私の写真や文章では伝えるのが難しいため今回は一部を動画で撮ってみました。2つの場面をご紹介しますが、どちらも1分程度の動画です。
どうでしょうか。厳かさや寛容さを感じるシーンはありませんか?
この日は、本当に老若男女でいっぱい。動画を見てもわかるように、子供や赤ちゃんも訪れています。親はこういった尊い機会に、高僧から子に対し祝福を受けさえたいと誰もが願います。
当然、長い間座っていられない子供や赤ちゃんは泣いたり、うろうろしたりしますが、それを咎めるような人はいません。逆にあやしてあげます。他国に比べたら子供たちもわきまえていると思うし、日本だったらチべタンホルンの大きな音やお坊さんの姿や声に泣いてしまう子が多いのではないかな。ブータンの子供たちも自然に慣れているのです。
前回の記事で、タクルン・リンポチェがお話されたことに、
ブータンは、チベット仏教を国教としている唯一の独立国であり、こうやって老若男女誰もがいつでも身近に寺院や仏教施設を参拝できることは素晴らしくそれを保護している政府に感謝を申し上げたい。
このようなお話は、以前にも知人をインド・ラダックからブータンへ招いたときにも聞いたことでした。そのお話もシリーズで書いたことがあるので、ご興味がある方はこちらをご覧ください。
この日は、いろんな角度からブータンの人々の寛容さを感じた日でした。そして、私もできる限り、長い目で多くのことに寛容でいられるように心がけたいです。少なくとも、いただいた分の半分くらいはお返したいです。
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2017年09月08日
ブータンの人々の信仰心~タクルン僧院 2~
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今日のお話も前回の続きです。法要(プジャ)や祝福(ブレッシング)の様子をご紹介する前に、なぜ私がこの日にここを訪れることになったかをお話しておきます。
「尊い機会なので一緒に行こう」と誘われたのですが、数年前にこのお寺に関わることがありました。お寺の建立は2010年に決まりその後工事が始まったのですが、当時、私の同僚が退職をしたいと願い出ました。私はその時「せっかく今まで頑張ってきたのに」・・・と思ったのですが、
『このお寺の建設に関わる仕事を頼まれた。これは自分の人生にとって重要なことで、最初にタクルン・リンポチェの姿を拝見した時にとても強いインスピレーションを感じたから、好きな仕事を辞めてもやりたいんだ』
実はこういった理由を私に話してくれた女性がもう一人いて、同様にお寺に関わる勤めを選びました。当時、彼女は辞表を私に出すのをずいぶん迷っていたようでした。何か言いたいことがありそうだけど、どうしたのかなと数か月間の気になっていたのですが、ある日
『仕事を辞めてお寺を選んでいいのか悩んだ。そして占いに行ったけど、今日この時間に辞表を出すのが良いと言われたから、どうか受け取ってください』
と晴れた日の空、みんなでピクニックをしている時に大事そうに辞表を出し、私はこんな想いで辞表を出してくれたことに驚きました。
私は仕事を辞める理由は何であれ自分で決めたらなそれでいいと思うし、次の目標を持って進んで欲しいと願います。ただ、現状としてブータンの若者は就職難の問題が深刻です(詳しくは”ブータンで採用試験をする”)。だから、やっと手にした仕事を手放さず、働きながらお寺に協力もできるのではないかと思うのですが、自由に時間が使えるように会社勤めを辞めるケースもあるのだと知りました。
でもそれは不思議と「篤い信仰心」からの行動のように感じませんでした。上手に言葉で表現できないのですが、熱烈な信仰心という感じではなく、あまりにも自然で空気にすーっと馴染むような表情をします。
例えば、チベット本土で発生しているような僧侶が焼身を図り、命を懸けて抗議をするしかないという行為は、ブータンの人々は彼らの事を気の毒に感じるでしょうが、心の底からは理解はしがたいでしょう。そういった状況に陥いることは今までにはなく、これからもおそらく起こりがたいことでしょう。
もし、統計をとったらブータンの人の携帯電話の待ち受け画面は、家族や自分自身、恋人などの写真よりも高僧やお寺、お釈迦様や等仏教に関わる画面に設定している方の方が圧倒的に多いです。彼・彼女らにとって、信仰と関わることはとても自然で信仰心は空気のようにあるものなのです。
今回、竣工式前のお寺に来てタクルン・リンポチェのブレッシング(祝福)を受ける機会に恵まれたとき、数年前にあったこれらの事を思い出し不思議な縁を感じました。セレモニーが始まる前、リンポチェがお話をされました。
お話された内容は、こうやってインドからブータンに来る機会に恵まれ、多くの人が集ってくれたことをうれしく思い、招待してくれたことを感謝すること。ブータンは、チベット仏教を国教としている唯一の独立国であり、こうやって老若男女誰もがいつでも身近に寺院や仏教施設を参拝できることは素晴らしく、それを保護している政府に感謝を申し上げたい。
リンポチェはチベット語でお話され、それをゾンカ語に訳す担当の方がいて、それを聞いた友人が私に英訳をしてくれました。
今回は長寿のお経を唱える前に・・・一番大切なこと、それは祈るにあたりピュアな気持ちを持つことだ、とお話されました。
ピュアな気持ち、この言葉をどうやってとらえましょうか。純粋な気持ち、真摯な気持ち、心から願う気持ち・・・。例えば、お金があるかないかは関係がない。自分が何かをお供えしたいと思うのであれば、何を捧げるのかではなくどんな気持ちで行うのか。それらが心の中の三毒である貪・瞋・癡(とん・じん・ち 貪り、怒り、無知であること)を克服する。そして、こういった教えは師から弟子へ伝えるように、自分自身だけでなく誰かに分け与えて初めて意味を成す。ピュアな気持ちに勝るものは無い、といった内容でした。
そのお話を聞く人々の表情。
私からすれば、この瞬間の人々がすべてピュアな気持ちに包まれ、この空間がとても清いものでした。
本当は、私も写真を撮らずにずっと手を合わせていたい。ブータンでは寺院内の撮影ができない場所も多いのですが、この日は「写真を撮って。そしてあなたの言葉で誰かに伝えて欲しい」と言われました。私にできることがあるのなら・・伝えられたらいいな、と思います。
(経典の部分によっては、指を曼荼羅の形に組む。お花を捧げているかのよう)
経典を唱え終わった後は、リンポチェによる祝福とお坊さんたちが聖水やお供え物などを配ります。
(聖水を受け取る)
この黄色い紐は、お守りとなるスンキ(詳しくはこちら)。
(子供たちはスンキやその他のお守りを沢山つけている)
(お坊さん達が自分の側に来るのを静かに待つ。息を吹きかけないように口元を隠す所作は尊敬を表す)
(こちらでも聖水をもらうのを待つ)
(リンポチェは、仏具を一人一人の頭の上にのせ、祝福を与える)
ブータンでも経済の波や変化が起き、毎日の生活の中では世界の他国と同様に、貪・瞋・癡がいっぱいです。欲が深くなり、自己中心的な心で怒り、物事の道理を理解せず実体のないものを真実のように思いこんでしまいます。もしかしたら、以前よりもこういった気持ちは強くなったのかも知れません。
それでも。
ひとたびお寺に来れば、これらの気持ちをなくしたいとピュアな気持ちになる。日々の実践とは異なる部分があるのは当然で、それを修行していくということ。仏教の教えは千年以上も前から真理は変わらない。
私は、ブータンが幸せの国と呼ばれるのであれば、その多くの部分は人々にこのピュアな心があり、それを分け与えたいと想う気持ちがブータンの人々の根本的な部分で繋がり、多くの人々との関係があることが幸せだと感じさせているのだ、思うようになりました。
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2017年09月07日
タクルン僧院 1~高僧がルムテク僧院からご訪問~
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
時系列としては前回の続き、話題はパロ谷のドゥゲル地区にあるTaklung寺院で行われた法要(プジャ)についてのお話です。このお寺は日本語としてはタクルンと書くことになりますが、現地の発音としてはタックルン(クもンもほとんど音にならない)のが近く感じます。
このお寺に到着するまで、こんなインド軍人たちがたくさんいるエリアを通過していくの??と意外性にあふれた道を通り、ぐんぐんと山道を車は進みます。近くまで来ると、ゲートの百メートルほど手前くらいから車が山道に沿って停まっています。多くの人が来ているのですね。
寺院の入り口には、5色の旗が掲げられ、
赤いじゅうたんも敷かれていました。一般の人々は、赤いじゅうたんを踏まないように歩きます。
坂道と階段を上りきると、じゅうたんの上に八吉祥(タシタゲ)が描かれていました。タシタゲは、チベット仏教圏では、身近なものにデザインされている8つの象徴(詳しくはこちら)。大切な方をお出迎えするときなどは、こうやって色づけしたお米でタシタゲを描き、ゲストがその上を歩きます。
以前に私も一緒にお米で描いたことがあり、詳しい描き方は→(ブータンの砂絵(米絵?)
さて、このTaklung寺院ですが、ドゥゲル・スクール横の道から車で10分ほど登った場所に位置します。実はこのお寺はまだ新しく建設中でほぼ完成しているのですが、竣工式はまだ行っていません。しかし、それよりも前にインド・シッキムのルムテク僧院から高僧(Taklung Rinpoche タクルン・リンポチェ)が招かれ、ここに滞在するということで法要が行われました。
高僧のお名前とお寺の名前は同じ。このお寺の裏には古い寺院があり、その寺院を守るため隣接する場所にお坊さんの学校兼寺院を新しく建てることとなり、タクルン・リンポチェが寄付を集いました。
このお寺の建立の経緯や、カルマパも関係しているそうなのですが、説明するのはとても難しい・・・ルムテク僧院やカルマパにご興味のある方は、
○インド・シッキムにあるルムテク僧院は、現在ではチベット仏教カギュ派の最大寺院。
○チベット自治区はダライラマを最高位とするゲルク派が多いですが、カギュ派の座主はカルマパ。
○カルマパ17世(ウゲン・ティンレー・ドルジェ)は10代の時に中国領チベットからインドへ亡命。しかし、インド政府はカルマパ17世をダライ・ラマに次ぐ重要人物としている。
○様々な方面から反発をうけ、カギュ派の総本山であるルムテク僧院にカルマパ17世が訪れることは未だにできていない。
○もう一人別の機関から認定されていたカルマパ17世(タエ・ドルジェ)もいらっしゃる。しかし、今年の夏、幼馴染のブータン人女性とご成婚された。カギュ派では結婚をすることもある。人々のために活動は継続するが、聖職位の授与は行わないと表明された。
などをお調べになってみて下さい。
ブータンの歴史は、今現在の地図上のブータン王国として考えるのは17世紀に統一されてからのこと。それまでは、チベットの歴史としてとらえた方がわかりやすく、9世紀に起きたランダルマ王の仏教弾圧がシッキムやブータンに与えた影響はとても大きいものです。
またブータンの方も、カギュ派のお寺・ルムテク僧院へシッキムへ参拝へも行きます。話が遠回りになりましたが、ルムテク僧院から招かれた高僧がいらっしゃるとのことでブータンの人々もたくさん集まりました。
(法要開始前から、内部に入れず階段下まで人々が集う)
ここに到着する前は、軍の施設を通ってきたためなんだか複雑な気持ちでしたが、もともとここにお寺があったこと、ここからはタクツァン僧院もブータン最古のお寺の一つキチュ・ラカンもあり、森林も美しく本来なら瞑想したり仏教の勉強に励むには最適な場所なのですね。
続きます。
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