ヤク
2016年02月17日
ブータンのおやつ~乾燥チーズ・チュゴ~2
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただきありがとうございます。今回はリクエストがあった、乾燥チーズのことを書きます。
チュゴは、ブータンやチベットでおやつとして食べられている乾燥チーズで、初めて見る方には「え、これってチーズだったの?」と思う方もいるでしょう。
(ハの町のある商店では、天井から吊るされて販売)
白色のチュゴは、↑このようにネックレスのように紐でつないで保存し販売することが多いです。軟らかさはそれぞれちがうのですが、食べ方はそのまま口に入れて舐め、30分くらい楽しめます。
チュゴには大きく分けて2種類あって、↑この写真の右側の白い色で小ぶりなものと、写真左側の大きめで茶色のチュゴ。作り方などは、以前の記事にありますが、抜粋すると、
①高所に暮らすヤクから絞った乳を使い、バターを作り、その際に出たバターミルクを温める
②ヨーグルトに温めた①のミルクを入れる
③そうすると、カッテージチーズとなり、空気を送り続けると分離する
④水分を絞って布に包み、重しをのせて一晩置く
⑤紐を通し、囲炉裏の上に置いて燻すと、自然に茶色くなる
こういったプロセスで作られます。茶色と白色、どちらが甘いかは、、、以前の記事にブータン人の感想があります(笑)
パロの町で日曜日の野菜市場(サブジバザール)でのチュゴ価格を、2016年2月の市場調査を発表します。
(パロで開催される日曜日の野菜(サブジ)バザールにて
白色のチュゴはネックレス状の一連でほぼ1kgになります。通常はkg単位よりも個数で数えて販売して、だいたい2個で10ヌルタムです。
パロ産は1kg=150ヌルタム=255円、ハ産は1kg=100ヌルタム=約170円でした(1ドル=67ヌルタム、本日のレートで計算しました)。
ハ産と言っていたものの、よく話を聞いてみるとブータンとチベットの国境地帯から持ってきたものを、別の人から買ったとのことで、厳密に言うとブータンではなく中国領チベットで作られたもの。ブータンと中国の国境は現段階では開放されていないのですが、遊牧民同士にはひっそりとした交流があるようですね。正規には行っていないものです。
今回話してくれた売り子さんが直接チベットから仕入れているわけでもなく、このブログにも写真は載せませんが、ブータンの人は正直に答え過ぎですね!一緒に買い物に行ったブータン人も「ちゃんと言わない人もいるけれど、この売り子さんは正直に答えていて偉い!今日はこのお店から買おっと」と言っていました。
そして、中国領チベット産の方が安いとは!? リスクも輸送費もかかっていると思うのですが、ここもなかなか不思議ですね。ちなみに味は違う?と聞いたら、う~ん同じかな、とのご回答!
(ティンプーの野菜(サブジ)バザールにて)
こちらの大きめサイズの茶色のものは、1個が約240g程度で150~180ヌルタム(約255円~305円)でした。金額に幅があるのは、作る行程で全て手作業で行ったか、機械を使ったかどうかなのだそうです。手作業の方が乳成分の分離の仕方が少し違うようで、おいしいそう。
これもやっぱり、ブータンの人は正直に答えてくれています
価格調査はしなかったけれど、他のお店では
電卓を片手にチュゴ大量購入の交渉をしているお母さんの姿がありました。チュゴは長く保存できるので、こうやって市場で買って自分の店で小売することも出来ますね。このお店↑のチュゴは、ソイ・ヤクサ(チョモラリトレッキングで通ります)産でした。冬はヤクの放牧地を標高3,000m程度まで下げたキャンプ地まで連れてくるので、冬場は遊牧生活をしている人たちも、こうやって市まで売りに来やすいですね。
乾燥チーズ・チュゴは、主に夏のシーズンにヤクを放牧する遊牧民によって作られています。私はヒマラヤ北部に暮らすヤクは、高山動物の家畜界の中の王様だと思います!
昨夏に、ヤクの牧草地へトレッキングへ行き、ヤクたちが暮らす広大な自然と人々の姿に、とても感銘をうけました(まだここに書けていないので忘れないうちに早めに書きたいです・・)朝起きて、彼女達と一緒に乳搾りやバター作りの作業を標高4,000m付近ではぁはぁ言いながら経験できたことは、私にとって貴重な思い出。
あぁ、また行きたいな~ やっぱり、私はヤクが大好き!以前にこのブログで、実際に飼う(現金で貰い受ける)ならいくらかも書きましたが、それくらい真剣に考えたのです。お金を払って譲り受けてもヤクは高所で生かしてあげなければならないので、ちゃんと面倒を見るためには自分が遊牧民になるか、オーナーとなっても彼女達にお金を払って遊牧してもらわないといけませんね。
ブータン人はヤクのオーナーになり、遊牧民に一定量の乳製品をシーズン中に届けてもらうというシステムがあります。でも私は乳製品というよりも、ヤクそのものと彼女達の生活が好きなので、当分この希望はかなわなそうです
↓参加中です。ぽちっと応援していただけたら嬉しいです。タシデレ
人気ブログランキングへ
2015年10月20日
ヤク肉のお味は?
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
前回の記事に続き、またお肉のお話になってしまうのですが・・・ブータンでヤクのお肉の販売が解禁になりました。毎年、10月ころになるとヤク肉が流通するのですが、生のヤク肉はこの時期にしか買うことができない貴重なものです。
高山動物の王様のように貫禄があるヤクはヒマラヤ北部に生息し、冬でも標高3,000m以上の高所を好み、ヤクを飼う遊牧民は新鮮な草を与えるために、一年間のうちに4~5回は場所を変えながら移動をし、テントを張りヤクと共に暮らしています。
今までもこのブログの中では「ヤク」についてはたくさん書いてきましたが(詳しくはこちら)、彼らの生活をご紹介したのは、「ヤクと共に生きる遊牧民」の回ですのでご興味がありましたらご覧ください。そこから少し抜粋をすると、
大人のヤクは1頭あたり5万円以上の値段になります(ブータン人の一般的な収入の月収2~3か月分)。毛も皮も角もお肉も、どこも余すところがないヤクですので、これくらいの金額になるのも十分納得です。ブータンでは、毎年この時期にヤクの肉が市場に出回ります。ヤクの肉は、乾燥肉を除けば一年中食べられるわけではありません。年老い、次のシーズンには歩くことが難しくなりそうな最年長のヤクを1頭選び、自分たちで屠殺をし、市場に売ります。現金が必要なかった時代は物々交換をしていましたが、現在ではヤクの肉や皮を売り、現金化します。
野生のヤクは世界でも数百頭しか存在せず、2000年には国際自然保護連合から絶滅危機の動物として指定されました。野生のヤクは寿命が20~25歳で、体重はメスが300kg、オスは800kg前後になりますが、飼育されているヤクはここまで大きくありません。
実は、今年の夏はまた別のヤクの牧草地へトレッキングへ行き、ヤクたちが暮らす広大な自然と人々の姿にまたまた感銘をうけたのでした。
夕方になると、山の峰からヤクが続々とかえってきて、こんなに大きなグループのヤクが歩いてくるのを見たのは初めてで、最初はあの遠くに見える黒い物体はなんだろう?と思っていたのですが、それがヤクとわかって大興奮でした。ブータンの遊牧民は、平均100頭くらいを一家族で連れていることが多いそうです。
朝はミルクを搾ります。
自然の中でのびのび過ぎるほど、悠々と暮らすヤクたち。しかし、天敵もいるのです。
と、、だんだん話がそれてきてしまうので、このお話はまた別のトレッキング・レポートでご紹介します!
さて、ヤクのお肉なのですが、高所で高山植物や自然にある草を食べているだけあって、完全オーガニックと言えるのではないでしょうか。もちろんブータンではヤクは、食肉を主な目的として育てているわけではないのでその数も貴重ですが、ヤク自体の生息スタイルがそもそもとっても貴重ですよね。
ヤクのお肉を見たことがない方も多いと思うのでご紹介しますと、
こんなに赤味があり、まったく臭くなく、とても美味しいのです。臭くないのは、高所の美味しい草ばかりを食べているからかな~??? 遊牧民はヤクたちに塩も与えています。
以前ご紹介した、ヤクのお肉をパテに使ったハンバーガーも食べることができます。
ヤクが市場で売られているときは、こんな感じでちょっとびっくりするときもありますが、全身どの部分も役に立つのですね(リンク先の写真は過去記事のものですが、閲覧注意ですので、苦手な方は気をつけてください)。でもどうやって食べるのかなぁ・・・・
あらためて、ヤクはすごいな~と感心し、美味しくいただきました。
人気ブログランキングへ
参加中です。ぽちっと応援していただけたら嬉しいです。タシデレ
2015年07月26日
チェレ・ラ峠、チャレンジハイキング~2~
こんにちは。クズザンポラー。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。チェレ・ラ峠での夏のハイキングの様子のレポートの続きです。前回のハイキング開始の様子はこちらからご覧ください。
さて、標高3、900m付近から歩き始めたハイキングは、チェレ・ラ峠のチョルテンを通過し、右にパロ谷、左にハの谷を見つつ、たくさんの祈りの旗をくぐりながら歩き、天気予報の装置器具の横を通って、高山動物ヤクの姿をみかけつつ歩き続けて1時間を過ぎると、牧草地のような丘が広がります。
ここはすでに4,000mを超えています。ここから更に、高所で育つ石楠花の群生(木は大きくは無く、日本のツツジよりも小さいサイズ)を目指して登ります。途中、この周辺の電波等や鉄塔の管理のために建てられた小屋があり、人が暮らしているような場所があり、ここでブータン人の友人が「この辺りでブルーポピーを見たことがある」と言うので、岩影を散策してみると、
いたあ~
咲いていました!1枚目の写真を見るとわかるように、もうすでに花が散ってしまい茎だけになった姿も多かったのですが、これが多分、シーズン終わりかけでも頑張って咲いていたブルーポピー。これは恐らく、Meconopsis simplicifoliaで1つの茎に1つの花をつけますが、同じブルーポピーでも他の種類だと1つの茎に花をいくつも咲かせることです。
実は、このハイキングを歩き始める前に毎年別の方向(パロ→ハの谷に向かうとき、チェレ・ラ峠で進行方向を左側に行く)ルートも約1時間ほど歩いて毎年観察しているエリアにブルーポピーを探しに行ったのですが、今年は花のシーズンが早かったのか、すでに散ってしまっていました。そのため、今年もブルーポピーの姿を何とか見れたことにみんなでおおはしゃぎ。
茎がいっぱいあるということは、シーズンまっただなかに来ることができれば、ここはブルーポピーのお花畑になりますね。6月末から7月初旬がいいかもしれませんね。
チェレ・ラ峠でのブルーポピーを昨年までに観察できた写真を見比べてみると、
同じブルーポピーでも咲き方や花びらの色、茎の長さなどが少しづつ違うことがわかりますね。
緯度・経度により日本とは比べられないことはわかっていますが、日本人の私からすると、標高4,000mを超えても植物や木々が育ち、緑色であることがやっぱり不思議です。
ブルーポピーのエリアを抜けると、石楠花の群生ゾーン。木の種類からして恐らく、白か黄色の花を5月ころに咲かせるような気がします。山の天気は変わりやすいと言いますが、数十分のうちに霧が立ち込めたり、強い陽射しが射したりします。
もっと近くに見えてきた、ハの谷の様子。天気が快晴であれば、ここから世界第三位8,586mのカンチェンジュンガが少しだけ見れるそうです。そう、ハ谷の奥にはインド・シッキムにつながるのですね。
更に歩みをすすめたいのですが、山の斜面には、
ヤクが2匹いる!
しかも、
なんとも力強そうです。。。さっき、子供のヤクを驚かせてしまったからなぁ、、、もしかしてこっちに向かって怒りの不満をぶつけられたらどうしましょう・・・
「もし万が一、ヤクとたたかう必要があるというケースになったら、ブータンの人はどうするの?」と聞いてみたら、
『ヤクとたたかうことなんてないよ。ただどうやって逃げるかだけだよ』
だそうです。そうですね、高山動物の王様のようなヤクに立ち向かうことなんてできません。。。
声を出しながら歩き、無事2匹の貫禄あるヤクのゾーンを抜けて、
ところどころにお花畑が広がり、またはぽつんと孤高に咲いているお花も見つけました。
( Edelweiss エーデルワイス )
( Azelea ツツジの葉 親指サイズの葉が幾何学模様のように見えて美しい )
山の斜面も緑で美しく、↑この写真の左側に点々と見える民家はハの谷ですが、この牧草地のような丘に沿って歩みをパロの方向へ向かっていくと、実はサガラ・トレッキングのルートとなります。サガラトレッキングは通常は2泊3日程度で行うトレッキングです。そして、このルートは先日ご紹介したキチュ方面にも繋がります(詳しくは「オラタンからキチュへのハイキング」)。
以前、ブータンの歴史研究者の方とお話しを伺う機会があり、
ブータン建国のため時代が大きく動いた17世紀頃の様子を考えてみるとチベットと深い交流があったわけだが、人々は峠を越えて歩いて谷と谷をつないでいた。地形は当時と大きく変わらないが、現在のように車道のルートをイメージしながらだと、当時のブータン国内の地方の王がどうやって各地域を治めていたかを理解するのは、隔たりがある。まずは車道のイメージをなくして考えてみるといいよ。
と話されたことがあったのですが、このハイキングを歩いてみると、まさにその言葉が納得できます。例えば、現在でもブータンの宗教上のトップであるジェイ・ケンポとそのお坊さん達は夏はティンプー、冬はプナカに移動しますが、昔は歩いてティンプーとプナカを移動していました。そのルートは、現在の車道とは異なります。
( サガラ・トレッキングのトレイルの様子 )
一般的に私達がもつ旅行の種類のイメージは、トレッキングやハイキングは山の景色や植物が目的に歩く、観光ツアーは文化的な遺産を見ることが目的で車で移動、のように分けて考えてしまいがちですが、実際に山を歩いてみると当時の文化交流がより理解できるなぁと実感しました。
そして、もうすぐ本日最高高度の岩の上に到着するはずなのですが、やっぱり4,400mとなると空気の薄さを実感します。
続きます。
:もうすぐ到着だよ~元気そうだね
人気ブログランキングへ
参加中です。ぽちっと応援していただけたら嬉しいです。タシデレ
2015年06月06日
ブータン巡礼の旅15~フォブジカからウォンディポダンへ~
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
なかなか終わりませんが、引き続き、今年1月中旬に訪れた中央ブータン・ブムタン地方への「ブータン巡礼の旅」のシリーズをご紹介しています。
この日は、絶滅危惧種のオグロヅルの里・フォブジカ谷からの古都プナカへの移動をしました。空気がキンキンに冷えている早朝に元気にダンスをするオグロヅルを見学して、フォブジカ谷に別れを告げました。
フォブジカ谷の入り口となる峠ラワラ(3,360m)に近づくと、高山動物のヤクの姿がちらほら見え出しました。夏は4千メートルを越える場所まで遊牧しながら移動しますが、冬の間はこの周辺まで降りてきているようです。
車窓から見る姿に「かっこいいヤクだ~」と喜んでいると、
「あれは雌だからヤクではない!」とおっしゃるパルダンさん。ブータンでは、雄も雌もほとんどの人は総称して「ヤク」と呼びますが、パルダンさんの暮らす北インドのラダックでは、雄は「ヤク」で雌が「ディ」と呼びます(詳しくはこちら)。(ラダックの人が、というよりも、言語に有識なパルダンさんのこだわりのような気もしないでもない・・・)
私の経験ですが、この峠ラワラ付近では、冬に来ればかなりの確率でヤクの姿を見ることができます。
そして、峠から下ってくるときに見えるブータンヒマラヤと手前に広がる石楠花の森、突き抜けるような青の空にいつもうっとりします。五月ころの、石楠花の季節にも来てみたいな~~。
フォブジカ谷からウォンディ・ポダンの町へは、西の方向に向かって約60キロのドライブで、止まらずに走れば約2時間ですが、途中のノブディンのエリアは道路工事で時間制の交通規制があります。フォブジカ谷は、県(ゾンカック)としてはウォンディ・ポダン県の管轄になり、この村には銀行やATMが無いため、村人はお金を下ろしに約2時間のドライブをしないといけません。
ノブディンに到着後、交通規制のゲートが開くまで少し時間があったので、村の中を歩いて散策することに。
村には、トラクターの絵を壁画として描いた建物があり、
KUBOTAと書いたトラクターと村人の絵を壁画として描いていること、ここにも農業機械の普及にも尽力した故・ダショー西岡氏の偉業を感じます。
いくつか並ぶ民家のほうに足を伸ばしてみると、
軒先で織物をしている女性の姿や、
お日様が出ている間にお湯浴び中の、お母さんに身体を洗ってもらっている子供たち。
お店の入り口にあるベンチで談笑するおじいさん。壁画に描かれているのは、ポーと呼ばれる男性の象徴の男根ですが、ブータンでは子孫繁栄や魔除けとして、あらゆるところで目にします。壁画や、屋根の四隅に木彫りのものをぶら下げたり、小さな木でできたものはペンダントヘッドのようにして身につけたりもします。
今までこのブログではポーの写真を掲載したことは無かったのですが、実はいろいろな場所で撮影しています。ブータンではお守りとして大切なものですし、昔から信仰されてきた習慣ですが、外国人が現代の視点でこのポーを見ると色眼鏡を通して見えてしまうものです。
最近では、首都ティンプー周辺では、壁画としてポーを描くことは減ってきたそうですが、昔ながらの家には今でもたくさん描かれています。
ちょうど建て直しをする状態のお家になんだか不思議なアングルで壁画が残っていたので、ドライバーさんを呼んで
記念撮影!!
そんなことをしていると、近づいてきた女の子に誘われて、
路地を進むと、
子供たちと一緒に真剣におままごとに参加をしているパルダンさんを発見しました。ブータンでもラダックでも、お坊さんを人々は尊敬していることはもちろんのこと、その存在はとても身近にあるということが感じられます。
お昼にはウォンディ・ポダンの町へ到着し、そこから30分ほどのドライブで古都プナカ・ゾンのビューポイントへ。
2つの川の合流点、色の異なる川・ポチュとモチュが混ざり合って何とも言えない美しいブルーのコンビネーションです。
いつ見ても美しいプナカ・ゾンです。
プナカでは、それより北のガサ県に暮らす少数民族のラヤッパの姿がありました。彼女達は冬の間の数ヶ月は、暖かいプナカにホームステイをして暮らしています。ラヤッパたちは、標高の高い地域から良質なお線香のもととなる枝や葉、遊牧しているヤクのチーズなどを持ってプナカまでおりてきて農家のお手伝いをし、プナカのお米と物々交換をして春にはガサ県に戻ります。
ヤクの毛で織ったスカートに赤字のラインが彼女たちの衣装です。
フォブジカ谷の朝は、
こ~んなに霜が降りるほど寒く、3,360mの峠ラワラを通って県庁所在地まで移動したわけですが、約2時間でサボテンが生えるすっかりトロピカルな気候となり、人々の暮らしも大きく異なるのが、やっぱりブータンならではの魅力ですが、この日の移動はそれを存分に感じることができる区間です。
続きます。
:パルダンさんを楽しませてあげてね~~僕はお留守番。。。
人気ブログランキングへ
参加中です。ぽちっと応援していただけたら嬉しいです。タシデレ
2014年12月08日
ツァンパに会いに行く ~9~ ヒマラヤの仙人
瞑想者ツァンパと遊牧民の家族のシリーズ最終回です。前回の続きですが初めての方はこちらからどうぞ。
やっとツァンパに会うことができ、雄大な自然の中、遊牧民のお母さんの夏のキャンプ地であるテントにて昼食をいただきました。ゆっくりしたい気持ちもありますが、この日はお母さん達は冬のキャンプ地へ、私に至ってはパロの町まで下りなければいけないので(標高4,000m強→2,300mまで)時間がありません
食事が終わった後は、越冬のためにテントを張ることに。遊牧民のお母さんが夏の間に使用するテント場を、ツァンパに使ってもらうことになりました。
もともとある石を積んで作った外壁と玄関の部分に、柱と梁になるように縦と横に木の棒を立て、
屋根部分を作っていきます。遊牧民たちは、この屋根の部分に高所動物ヤクの毛で織った布も使いますが、現在ではプラスチックのビニールカバーも併用しています。
私は、実はこっそり見てしまいました。
S君は、遊牧民のお母さんに屋根部分になるビニールカバーがないかとこそっと聞いて、お母さんがどこか離れた場所に歩いてゆき、このシートを持ってきました。遊牧民たちは家財道具の一切合財を持って移動をしますが、このようなシートは自分たちだけが知る場所に隠しておき、次のシーズンまで置いておくのでしょう。S君はシートをお母さんからこの場で買い取り、一緒に設置を始めました。
外壁の石の隙間に小枝をさしこんだり、紐をループにしその先端に重石の石を使うことで、強風に煽られてもシートが飛ばないようにしています。テント設営をするみんなの側で、この冬の間に住人となるツァンパは本人は、ぽつんと立って眺めていました。
↑↑ こうやって、遠くから、眺めています。
↑↑ そうして、何かを呟いていたので、どうしたものかと、その理由を聞いてみました。
僕はね、何もいらないんだ。彼ら達やあなたが私を心配してくれて、食糧やテントを準備してくれる気持ちはとても嬉しいと思っています。でも、僕にはこんなにたくさんのものは必要ないんだよ。
(確かに彼は、遊牧民の家族と夏に同行することになる前、望むものは静かに平和に瞑想ができる場所だけ、と言っていました)
なんと答えていいのかわからなかったので、、、、私はちょっと話題を変えてみました。
ツァンパはどうして、こういった瞑想をする生活をしようと思ったの?
僕はいろいろ経験して、この生活があっていると思ったんだ。毎日、自然の中で邪魔するものが何もなくて、そこで自分や動物たちや命あるものが平和に暮らせるように、そのために詩を詠んだり、祈ったり、瞑想をすること、とても平穏で満たされるんだ。あなたはどこから来て、故郷はどんなところ?
私は、彼にうまく伝えることができるか迷いましたが、話してみました。
私は海の近くで、通学路は海を眺めて歩いて、山も近くにあって、川の清流には鮭が産卵に帰ってきて、庭先に狸が顔を出して、春には桜が咲く、そんな場所で育ちました。でも今では、私だけでなく誰もがその町で暮らすことができなくなりました。それはブータンにはないもの、自然には存在しない放射線の量が町を変えた。元のような環境に戻すには気が遠くなる年月が必要で、、今までと同じ町や日常生活には戻れないけれど、これからは自分できっとどこかに故郷を作ります。
ツァンパは、私に言いました。
どうしても避けられない苦しみや困難は誰にもやってきます。でも、その立場や状況に落胆してはいけません。それでは、そこから抜け出せなくなってしまいます。だから、きっと乗り越えられると思う自信が大切です。それに、もしあなたさえよければ、ここに居たらいいですよ。
(そ、そ、それは、、、最後の部分だけは、、この厳しい環境では私には無理だぁ、、、と思いましたが、ツァンパの優しい思いと、彼はここで、見えない誰かのためにも経典を読んでいることに感動しました)
そして、いろいろな高山植物を紹介してくれました。
冬場はほとんどの植物が枯れて乾燥しています。これは、おそらくツツジの仲間の葉と小枝。これは、食後に食べると消化に良いと教えてくれました。そういえば、彼は「食べるものは自分で探せるから、運んできた食糧はいらない」と言っていましたが、どうやって食べ物を探しているのでしょう??
その答えは、「こうやって、植物を食べている。これとか、他の植物などが僕の食事だよ」
な、な、な、なんですとー!!
そうなのか、、、、これらを食べて暮らしていたのか、、、
前回、体温を調整するヒーティングメディテーションという術があると書きましたが、このような植物だけで暮らしていける術もあるのだろうか・・・・だから、お米も炊かずに水に浸していただけで食べていたの??
「仙人、霞を食べて生きる」ではありませんが、もうそれ相当のレベルのお話ですっ。ご本人を見ても、特に栄養不足には見えませんでした。不思議です!でも、こうして暮らしてきた薬草の知恵が、遊牧民のお父さんの病気を治す薬草を調合したことに繋がっているのですね。
張り終わったテントに戻ると、
野生のネズミがお出迎えしてくれました。私は、
ツァンパ、良かったですね。この冬は一人じゃなくて、新しくお友達ができました。あなたが食糧もテントも要らないという気持ちもわかりました。でも、あなたは要らなくてもこの野ネズミが喜んでお米を食べるでしょう。テントを使わずにいつもの洞窟で寝たらいいと思います。でも、ちょっと寒いなーって思ったら、そんな時には緊急避難として入ればいいんじゃない?
出過ぎたことかもしれませんが言いました。そして、遊牧民のお母さんは、最後までツァンパに食事や生活についてのアドバイスを言い聞かせていました。時間があまりないので、早速下山を始めたのですが、帰り道を歩きながら、私は思いました。
遊牧民のお母さんにとって、ツァンパはきっと自分の息子のように心配だったんだろうな。「ちょっと不思議なんだよね・・・」と表現したのも、愛情を持っての事だったのです。彼女達は毎年の冬の過酷さを身を持って小さなころから知り尽くし、なんとか納得させなければいけないと思ったのでしょう。ましては、彼は命の恩人でもある方なのです。それが、ツァンパにとってちょっと世話焼き過ぎると思ったとしても、お母さん家族にはどうしてもほっておけなかったのです。
そして、これは私の勝手な想像ですが、、、
彼は集団行動や時間の枠で何かをしたり、人に接することがあまり得意ではないと言い、そう感じる部分もありました。昔から他のみんなができることが、自分にはできなかったとも言っていました。だから「僧」として寺院やゾンに属し、集団の中で規律を守って修行をしたり、「ゴムチェン」として村の人々と、密接に関わることよりも、一人で自由に暮らし、瞑想や読経をし、隠者として暮らす「ツァンパ」の方が合っているのでしょう。
日本では、他の人と比べて違う部分があるとそれを責めたり、様々なレッテルを張る傾向があり、生きにくい社会だと感じることもあります。でも、今回ツァンパに会って再認識をしました。
いまを生きて、わたしを生きること。どうあるかということ。 それが大切だということです。
「いまを生きて、わたしを生きること」は、何をもって幸せかを判断するのは自分であり、他人と比べても意味がないこと(詳しくは「特別な日にGNHを想う」)。
「どうあるかということ」は、今年逝去された友人の父上が話してくれたことです(こちら)。「どうするか、何をするべきか」ではなく自分自身のあり方を問い、いま、ここにいることを自覚して自分のあり方を考え、全てのことは変化をしていることを受け止めること。
ツァンパのように独り、過酷な自然環境の中で暮らしながらも自分のために、そして、命あるもの全てのために祈ってくれる人が、この世の中にいるということ。彼の精神力の強さも、その想いの強さも計り知れません。
遊牧民のお母さんのように、受けた恩を忘れずに感謝をし、愛情を持って返そう、そして受け取った以上のものを精一杯与えようとする人。
S君のように直接関係がなくても、助けたいと思い奉仕をする人。
各自の立場や状況が違っても、こういった慈しみ思いやる気持ちと、それぞれの個性を受け入れる寛容さがブータンにはあります。そして、人々を繋げるコミュニティの強さと関係性があります。
実は私達がダキパンツォ(湖)までツァンパに会いに行ったのは、2012年のことでした。遊牧民のお母さんに聞いてみましたが、その後、春を迎え夏のテント場まで行った時はツァンパの姿はありませんでした。その代わり、一時は体調を崩したお父さんのために摘んだ薬草が置いてあったそうです。その次の年も、今年も、ツァンパの姿を見かけることはなかったそうです。
私はたまたま不思議なご縁でたどりつきましたが、この時、この出来事を体験することができて、彼らを知ることができて、幸運で幸せなことでした。私がまた、ツァンパにお会いすることができるかはわかりませんが、もし会えなくても、私も人から受けた好意を誰かに渡すことで恩返しをしていきます。
きっと今この瞬間も、このブータンのヒマラヤの山奥で静かに瞑想をして、平穏に暮らしていることでしょう。
※一般的に「ツァンパ」と呼ばれる方が、すべて彼のような暮らしをしているわけではなく、様々なスタイルがあることをお知らせしておきます。
:あっちのほうにいると思うよ~今度はピクルスをいっぱい持って行こうね