塩
2020年06月24日
ブータン塩の大作戦
こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
ブータンの塩をシリーズで書いていますが(一話、二話、三話)、シリーズ最終回です。
1955年にブータンとチベットとの間に貿易問題がおき、ブータンで食塩不足の危機があったことを地元紙クエンセルにありました。リンク先はこの記事の一番下に貼っておきます。その内容を引用・抜粋しながらまとめています。
この問題を解決するための秘策とは…いったいなんだったのでしょう。
・・・・
・・・・
それは、なんと!空中から投下する案が選ばれました。
この発想は当時、とても大胆なものだったと思われます。
投下目標は合計で、5000マウンド(=186,600キログラム。
じゅうはちまんろくせんろっぴゃくキログラム!!
前回の記事での計算方法で考えると、もしこの量を陸路で運んだ場合の輸送費は20万ルピー。
当時の政府高官の給料1000か月分=83年間分。
牛を飼うなら2666頭分。
これを考えると陸路より空中投下が安いという試算になったのでしょう。
あぁあぁ、でもでも、わたくし、、、なんか嫌な予感がします。。。ぞわぞわ。と思いながら記事を読み進めていくと、こう続いていきます。
”ブータン首相のジグミ・パルデン・ドルジはインド・コルカタへ向かい、依頼を受けてくれる航空輸送会社を探すと3社に交渉の余地があった。
そのうちある会社は、洪水救援活動で忙しく関心を示さなかった。他社は、最初は無関心だったが、交渉を重ねた末に興味を示し、テストフライトを行い調査をしたが最終的には許可が下りなかったこともあった。
しかし、交渉をしているうちに2回ほどテストフライトを行って、その可能性を知らせてくれた会社があった”
良かったですね。現在のブムタンにある国内線空港でさえ、天候が悪ければ着陸ができなくなりますので、投下をするにも困難が多かったと思います。
そしてテストフライトが終わった後も、実行までには紆余曲折があったそうですがとうとうその日を迎えます。
”落下ポイントの航空運輸会社からの提案は、ウォンディチョリン宮殿とジャカルの町の銀行がある平坦な土地の2か所だった。ブムタンの人々は「塩が来る!ジグミの塩だ」と声を谷に響かせた。
空中投下は11月6日に開始された”
”投下の初日と2日目は、飛行機は高度を下げることができず高い地点から投下し、目的地点も不正確だった。8袋は川に落ち流れ、6袋は岩に当たり粉々になって散らばり計14袋が失われた。残りの袋は損傷したものか、破けたものだった。
しかし、落下目標地点を複数ではなく、ジャンペラカンのお寺のみに集中して投下し始めると、破損はずっと少なくなったことが分かった”
”手紙によると投下は1日に3回行われた。1回の投下につき82袋ずつ、計246袋を投下していたがそのうち4~5袋は破損した。各袋からそれぞれ7~8パウンド(注:約3キロぐらいずつ)の塩は台無しになった。
残りの詳細はまだわかっていないが、11日間で目標18万6千キログラムに対し、2706キログラムの塩が投下されたことを知っている”
と新聞記事には、塩の投下についてはここまでの記載がありました。
これだけだと最終的に目標数をすべて投下できたのか、そしてどれだけの損失がでたのかはわかりません。この記事を元に、手元に残った塩ではなく、投下された数だけで考えてみました。
11日間で2706キログラムが投下された。ということは、
目標達成にはこのペースであれば、あと747日間が必要。
1日に計246キロを投下していることになる。
そして1日に3回飛行して投下=1回につき82キロを投下したことになる。
う~ん。。
この記事を読み始めたときのゾワゾワ感が、よみがえる(笑)
コルカタからの運航1回につき塩を82キロの投下していたことに私の計算ではなるのですが、もう少し運べないのかったものなのかなぁ。搭載量が限界だったのかなぁ。
でもこれだけしか運べないなら、コスト高そうだけどなぁ。
そして、投下したうち何割かはダメージを受けているというのは・・・
な~んて今の基準で考えだしたら、いけませんね。
それに私は計算も英語の読み取りも得意ではないので、間違えているかも知れません
当時の時代では、効率があがらないことなど当然のようにあったでしょうし、一部の記録だけを見て判断することもできません。
パイロットもすごく大変だっただろうな。
でも人々は本当に塩を待っていただろうし、うれしかっただろうなぁ。
人々は塩を待ちながらもブムタン・ジャカルに建つ、最古の寺の一つジャンペラカンを目標に投下されていたことを知っていたら、さぞかしみんなオムマニペメフンと真言を唱えただろうな。
国道が開通するまで、ずっと塩の投下は続いたのだろうか?
なんて、様々なことを思い楽しみながら読みました。
また記事には、ブータンがチベットへ米や穀類の貿易をやめるよう措置をとったのであろう裏事情(表向きには国内需要のためだが、実際は不当な取引となっていた)ことなどにも言及がありました。
今回、この新聞記事を読んで「塩」はそれ自体もまた交易路もふくめ、世界中で同じように交易の道がありとても興味深いテーマだと改めて思いました。
私がブログで書くには深すぎるテーマだったので、民俗学者さんなどが研究していたらもっと知りたいと思いました。
かつてインドでは塩の専売制がしかれ、海という資源があっても自由に塩を作ることはできなかった。
ガンディーさんが塩の行進をへてインドでの製塩が認められたのも1931年。
この1955年のブータンへの塩の投下まで、塩の製塩が認められてから20数年しか経っていなかった時の出来事だと考えると、なんだか重みのあるしょっぱさです。
それに、空中投下にまつわるブータン特有の自然環境や交易がわかったのもおもしろいですね。
急がば回れだったのかな?と思いながらも、塩をバター茶とエマダツィ(唐辛子のチーズ煮)のためにも待ちわびた人々の姿を思うと、一大事件だっただろうな~。
↓クエンセルの記事はこちら
https://kuenselonline.com/the-1955-bumthang-salt-crises/
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2020年06月23日
1955年ブータン塩の危機
こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
ブータンの塩をシリーズで書いていますが(一話、二話)、舞台はブータンへまた戻ります。
ブータンはチベットと国境を接していますが、交易路はブータン国内の東西にいくつかポイントがありますが、有名なのは西ブータンではパロやハ、東ブータンではブムタンやルンツェ、タシヤンツェなどにチベットとの交易をしていた場所があります。
昔はトンサより東、峠ペレ・ラを越えたら「東ブータン」とされていて、面積でみれば東ブータンの方が大きなエリアでした。
特に現在の中央ブータン・ブムタン地方とチベット本土が交易のルートで、温暖な気候の東ブータン地方で作られた米などの穀類と現在中国にあるチベット自治区の塩をメインに長い間、両国の貿易品として流通していました。
ブータン側の国境ポイントは、現在のブムタン地方・ナンシペル村を越えた先の峠モンラ・カンチュンラです。ここを通って南チベットからブータンに塩がもたらされていたそうです。
実際にブムタンのお寺を訪れると、歴史的にチベットと関わりがあったお話がたくさん登場します。
このブログではケンチョスムラカンの言い伝えを紹介しました。
『ケンチョスムラカンのお寺にある鐘の音は大きく美しく、チベットのラサまで響いた。
その音を聞いたチベット人はこの鐘が欲しくなり、ブムタンへやってきた』
そんなブータンとチベットとの間に、貿易問題が勃発します。
ブータンの地元紙クエンセルに「かつて中央ブータンのブムタン地方で塩が不足をし、その問題を解決するための秘策があった」という記事がありました。
リンク先はこの記事の一番下に貼っておきます。記事を抜粋しまとめてみます。
”1955年、ブータンはチベットへの米の輸出を禁止した。表向きの理由は、米などの穀物類は国内需要に留めることが目的だった。それに対しチベット人は、塩の輸出を禁止することで対抗した。
この輸出禁止の詳細については、Nari K. Rustomjiの著作「Bhutan Venture」に記録があり、著者はシッキムのDewanだった。彼はブータンの人々に「Rustomjiおじさん」と親しまれ、この時期にブータン王室の結婚式に参加するためにブータンに招待されていた。"
とあります。Dewanとは、役職のことです。
塩が手に入らなくなったブータン、まぁ!大変です。大事なミネラルが不足してしまいます。
ブータンの人たちは塩味が大好き、塩がなくっちゃソウルフードのエマダツィもおいしくならない!
この危機を打開するため、Rustomjiおじさんがブータンに手を貸します。
シッキムの高官に手紙を書き支援を求め、インドから塩を入手することを思案します。
ブータンとシッキムは長年交流があり、何より皇太后はシッキムのご出身です。
当時の近隣諸国との関係は、先月アシ・ケサン・チョデン皇太后が、90歳のお誕生日を迎えられた時にもふれましたが、簡単におさらい(※)。
皇太后の母上はシッキム王家の出身、兄は初代ブータン首相、1952年ブータン第三代国王とご成婚。近隣諸国での出来事も合わせてみてみると、
47年 シッキム王国はインドの保護国に
52年 第三代ブータン国王が即位
55年 チベットとブータン間に貿易問題、チベットから塩がストップ
58年 インド初代首相ネルーと娘インディラ・ガンディーがブータン訪問
59年 チベット動乱。ダライ・ラマ14世がインドへ亡命
62年 中印国境紛争が勃発
64年 初代ブータン首相が亡くなる
この時代はどの国も激動の時代でした。
さて、どうしても塩を手に入れたいブータン。
”計算によると、インドからブムタンまで塩の輸送費は塩1マウンド(約37キログラム)あたり40ルピー。当時の政府高官の給料が月200ルピー、牛一頭が75ルピーであった。”
高いですね。なぜこの値段になるのでしょう。おそらく一番大きなのは輸送費、交通問題です。
このブログを先月読んで下さったみなさま、覚えていらっしゃいますか。
ブータンへのフライトが運航開始されたのは1983年。それよりも以前に、日本人の東郷大使は1962年にブータンへ訪問されましたね(※※)。
その年はインド・ブータン国境プンツォリンから首都ティンプー方面へ、国道が開通した年。
それでも2日間の旅でしたが、それ以前はラバで6日間だった、雨季であれば更に時間がかかると記録されています。
塩の危機を迎えた1955年、まだ国道は開通していません。
ということは…首都ティンプーから東ブータン地方へ運ぶにはさらに倍の時間がかかり、チベットとの貿易で活躍していたヤクに比べラバが一度に運べる量も少なく、急いで塩を流通させるにはベストな手段ではなかったのでしょう。
それに輸送費がこれだけ高かったら、一般市民には到底手が届きません。いろいろ考え、Rustomjiおじさんはあるアイデアを思いつきます
続きます。ひっぱってしまってごめんなさい。次回がシリーズ最終回です。
https://kuenselonline.com/the-1955-bumthang-salt-crises/
:次で塩の大作戦がわかります
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2020年06月18日
塩の路ヒマラヤを越える
こんにちは。クズザンポラー。ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
「ブータンで販売されている塩で国産のものを見たことがないな」と思ったことから、塩のことを少し考えたり調べてみました。
前回はブータンで見かける動物たちも土や岩肌、家畜の場合は飼料から塩分やミネラルを摂取していることがわかりました。
ブータンで販売されている塩の話に入る前に、もうひとつ、別にふれておきたいことがあります。
一つ目はかなり古い映画ですが「秘境ヒマラヤ」。
1960年に公開されたドキュメンタリー映画で、日本の「西北ネパール学術探検隊」が昭和33年に、ネパールのヒマラヤ最奥のドルポ地方へ調査の記録です。
ドルポは、現在においても外国人の訪問は簡単ではなく、場所は北には中国領チベット、三方をヒマラヤの高峰に囲まれたムスタン王国のローマンタンよりも最奥、標高3500~4000mほどです。
この地へ昭和33年に足を踏み入れていることがまず驚きですが、その内容は今見ても、いや今見るとさらにより興味深く、当時の様子を鮮明に残した貴重な記録映画です。
探検隊にはのちにブータン農業の父と慕われる西岡京治氏(ダショー西岡さん)も参加されています。
隊長は川喜田二郎氏ですが、川喜田先生もこの探検に関することに加え、ブータンに関する著書を書かれています。
この映画からは多くのトピックがあるのですが、今回のテーマにポイントを絞ると、ドルポは昔からずっと塩の交流をしていて、それを続ける仕組みがあった。
映像の中では一妻多夫の家族の生活の様子が記録されています。
チベット文化圏では一妻多夫(一人のお嫁さんは、夫と夫自身の兄弟とも婚姻)もあります。
夫である長兄またはその弟が交代で順番に、塩のキャラバンへ行く。
チベット国境までヤクの背中に荷物をのせ、穀物などと塩を交換して戻ってくる旅だ。
一回の旅で長期間に渡り家を離れるため、残った兄弟が留守を守り農作物を育て、家族を守る。
そうすることで、一人の男性が続けて行商に出る身体的負担も避けられる。
キャラバンは命がけであるため、この制度は長年守られてきた。
なるほど~
財産分与の問題だけでなく、過酷な遊牧生活を送る民がリスクヘッジとして行っていたのが一妻多夫である、それは納得だな~と思いました。
(個人の感情はこの場では別として)システムとしてそう支えてきたということ。
海がないネパールでは、チベット産の岩塩や塩湖から作った塩(湖塩)はとても欲しい。
自然環境が過酷で農業には適さないチベットにとって、ネパールの穀物等はとっても魅力的。
これらをトレードすることはお互いに利点があり、長年にわたってトランス・ヒマラヤの貿易が行われてきた理由にも納得です。
ブータンも南チベットと塩の貿易を行っていた記録があり、ネパール同様に海がなく、塩が欲しかったという点は同じですね。
またドルポの気候では十分な穀物を育てることが難しいため、貿易の品としてタカリ族が他の地域から運んできたものを更にチベット国境まで運んでいました。
もうひとつ、同じくドルポを映像で見られる映画が「キャラバン」
この映画は大変映像が美しく、なんといっても登場人物を演じているキャストがドルポの人たちです。あらすじは割愛しますが、ヤクを連れ、厳しい大自然の中で塩を運ぶ様子が描かれています。
どちらの映画を見ても、ヒマラヤを越えて塩の交易が伝統的に長年において行われていること。
塩が本当に大切で貴重であったことがわかります。
それにこれらの国々では今もバター茶が愛飲されていて、これには塩が欠かせません。
そしてこの2つの映画で、ドルポの民が交換したチベットの塩を映像で見た限りは、岩塩っぽくなかった、白っぽくさらさらしている、ところどころに小さな塊もありそうと気付きました。
※ここからは映像をみた私の個人的な感想です。文献などの根拠はありません※
私たちが一番最初にイメージする「ヒマラヤの塩」はピンクソルトではないでしょうか。
ヒマラヤと言っても地域が広く、その一部でもあるパキスタンの首都近郊のケウラに世界最大級の岩塩鉱山があります。鉱山内はライトアップされて観光名所にもなっていて、機械を使って岩塩を切り出していますが、標高は高くありません。
ネパールの首都のお土産屋で、大きな岩塩をランプシェードや置物として販売していましたが、こっそりと「これ、実はパキスタンからきた品」と教えてくれたこともあります。
ヒマラヤピンクソルト、きれいですよね。産地はパキスタン産が多いと思います。その他にもネパールでは、紫色や黒色で硫黄臭が強い岩塩が売っていました。
ネパ―ルでもブータンでも、チベットから塩を輸入していました。
チベットはとても広大で、ドルポとブータンが同地域の塩を買っていたのかどうかはわかりません。
地図でチベットとの国境線だけを見ると横幅が長く、距離はとても離れています。
ただ、チベットからの塩は、どちらも主に湖塩だったのではないかなと映像から想像しました。
チベットには塩湖が多く、日差しも強く乾燥しているので作りやすそう。
火を使って製塩するには薪となる材料が極端にないので、天日干しにしたほうが簡単かも。
もし岩塩を切り出すなら、標高が3000mを超えるエリアばかりで、高所でその作業をするには負担が大きいし、輸送費もかかりそう。
岩塩には様々な成分が含まれていますが、湖塩であれば蒸発によって食塩に適した味になって、ブータン人には使いやすかったのではないかな?などいろいろ想像しました。
ただ、、、チベットの塩の路も1959年前後に大きく変わります。
59年にチベットからダライ・ラマ14世がインドへ亡命したこと、インフラが発達し、過酷で危険なルートをキャラバンするよりも、インド経由で安価な塩が手に入りやすくなります。
もし今度、東ブータンで高齢の方にお会いしたら、59年より前の、塩を覚えている?
どんな色で、どんな感じ、味だったか教えてほしいなぁ。
もう少しだけ、続きます。
ちなみに、映画キャラバンのサウンドトラックに、真言のom mani padme hum(オンマニぺメフン)を繰りかえす歌があります。これは大ヒットしネパール、チベット、ブータン、インドなどで今でもよ~く流れています。これが映画の音楽だったんだ!と思われる方もいるかもしれません。
:僕もたまには塩をなめたい
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